2014年の10月の誕生日の日に頂いたメッセージの中の質問とその答え

2014年の10月のフェイスブックに書いた記事より

誕生日の日にたくさんの人からメールやお祝いの言葉を書いて頂きました。
僕の生徒だった方から質問がいくつか入っているメールを頂き、その答えをみなさんにも、お見せしようと思います。

いくつかにに分けて答えを書こうと思います。

これがひとつです。
———
アンジー:『Ayuoさんのブログを読んでいて思ったのですが、

Ayuoさんは『こういう自分になりたい』というような理想の自分を思いえがくことはあるのですか?

人は、『こういう自分になりたい、でもなかなかそうなれない』という思いを抱えて生きていることが多いと思いますが、
Ayuoさんは、あまりそういう感覚がないような印象があります。

Ayuoさんのライブにたくさん行っていた頃の私は、『もっとこういう自分になりたい』という感覚が強くて、でもなりたい自分になかなか近づけなくて、』
———–

僕にも、こういうような事をやって行けたら、というはっきりとしたある人のイメージが中学生の頃にはありました。
それは1973年から1975年にライブをよく見ていた当時ジェネシスのメンバーだったピーター・ガブリエルがその頃やっていた事です。
1975年に見た『The Lamb Lies Down On Broadway』というのが一番すごく、これは見る人間にまるで宗教的な変革を与えてしまうほどの強い作品でした。

『The Lamb Lies Down On Broadway』はピーター・ガブリエルがカール・ユングの『思い出、夢、思想』と『チベット死者の書』を読んで、それを現代のニューヨークと異次元の夢の世界を舞台にして書いたストーりーに基づく1時間半のショーだった。
これはエンターテイメントではなく、見る人間を内面的な世界に引っ張っていくような体験でした。

古代のシャーマンのパフォーマンスや中世ヨーロッパの神秘激、日本の能、中東のスフィーの踊りと音楽、フラ・ダンスの元になる神様に捧ぐ踊りもこの為に作られていたと思っているのです。宗教音楽という伴奏的なものではなく、舞台そのものが一つの体験となり、それを経験した者には世界観の変革が起きてしまう。
これは簡単なことではないと思っています。

ピーター・ガブリエルは当時はあまり曲を書いてはいなく、言葉を書いて、曲の前後に物語を語っていました。
そして、手話のような動きを使って、歌っている言葉を手や体で表現していました。

僕は中学生から高校性の頃、このような世界に影響を受けて、物語や詩を作って、そのような手話的な動きを使いながら朗読をしていました。

ピーター・ガブリエルが描いていたような不思議な世界観は中世ヨーロッパでは吟遊詩人達が作っていたもので、中東ではスフィーの詩人、ダンサーや音楽家が作っていたもようなもので、19世紀の音楽劇や交響詩ではワグナー、ベルリオーズ、リスト、20世紀の音楽ではドビュッシー、ベルグ、20世紀のダンスではニジンスキーやルドルフ・ラバンがこうした世界を作っているように思う。

これが本来の芸術の目的だと思っている。

それを作るには、たくさんの経験を必要とする。
それを目標として、自分をパフォーマーとして特訓している最中だと思う。

1980年代にイギリスに初めて行った時、実はほとんど人を知らなかったが、その2週間後にはピーター・ガブリエルと共同プロデューサーだったデビット・ロードと出会い、ピーター・ハミルに紹介されて、イギリスのトラディショナル(伝統的な)音楽で知られているスティーライ・スパン、インクレディブル・ストリング・バンドとフェアポート。コンベンションのメンバー達と録音する事になった。今でも、僕にとっては不思議な出会いの話しだ。『何が起きたのだろう?』と思うような事だった。そして、そこで他の人のプロデュース・アルバム(沢井一恵)を含めて1986年から2000年の間に5枚のアルバムを作る事が出来た。

しかし、これも一つの途中段階のものかも知れない。

2000年代では音楽劇として『葵上』、『井筒』、『マルグリット・デュラスの”青い目、黒い髪”の弦楽アンサンブル・ヴァージョン』、等から始め、こないだはドナルド・リチーの日記から『OUTSIDE SOCIETY』という作品を作った。
今では、カールユングの夢日記から新たな作品を考えている。

これはいろいろな道に入りながら、一つのところに向かおうとしているようなものだと思っています。

音楽家、あるいは英語作詞家として人から頼まれた仕事には、これはカウントされないのです。
それは人の世界を作るのを手伝う事であるから。
また、作品や楽器を教えるのもそうでしょう。
それは楽しく出来るからやっていられる事だと思います。

向かっているところにはまだ到着していなく、まだ、これからだと思っています。