ラヴェルとサティ、そしてドビュッシー by Ayuo

ラヴェルとサティ、そしてドビュッシー   by Ayuo Takahashi

これは、こないだfacebookで書いた『サティとドビュッシーの不思議な関係について』の続きでもあります。
こないだの文章の終わりの方で、次のように書いていました。
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ロバート・オーリッジによると、1908年位までは音楽技術のない音楽家、サティと作曲でローマ賞をとった作曲家ドビュッシーとの友情関係に見えていた。しかし、1910年代に作曲家のラヴェルがサティの作品を弾いて、影響を受けたと言い出すと状況は変わってしまう。
サティは次のように書く:
Erik Satie:One person who isn’t pleased is the good Claude. If he had done sooner what Ravel – who makes no secret of the influence I had on him – has done, his position would be different.I’m not angry with him about it. He’s the victim of his own social climbing.Why won’t he allow me a very small place in his shadow? I have no use for the sun. His conduct has antagonaised the ‘Ravelites’ and the ‘Satiests’, people who have been yelling at each other like polecats.
サティ:クロード(ドビュッシー)は面白くなかった。もしも、クロードが先にやってくれていたら、違っていただろう。ラヴェルは、私、サティに影響を受けたとみんなに言ってくれる。私は怒ってはいない。ドビュッシーは自分の出世に夢中だったらから、こうなってしまったのだ。どうして、かれの影としてでも、立場を与えてくれないのだろうか?私にとっては太陽のように注目される必要がない。ドビュッシーの行動はラヴェルのフォロワーやサティを注目する人達がお互いをスカンクのように怒鳴りあうような状況を作ってしまった。
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多くの友情は、その人間同士だけではなく、周りのフォロワーたちによって破壊されてしまうケースがある。ドビュッシー、サティとラヴェルの関係にも、そのような感じが見えて来る。サティ本人もドビュッシーが亡くなった後に、このように書いていた:
サティ:私のかわいそうな友よ。しかし、今生きていたら、世間やドビュッシーのフォロワー達がお互いを敵同士にさせたかもしれない。私達の長い友情は世間によって破壊されたかもしれない。
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ラヴェルは父、ジョゼフ・ラヴェルの紹介で学生時代にエリック・サティと出合った。サティは当時Cafe de la Nouvelle Athenesでピアノを弾いていて、ボヘミアンな生活をしていた。ラヴェル本人は書いている。
L’influence de Satie [était visible] dans la Ballade de la reine morte d’aimer.” (Ravel [1938]).
サティの影響はラヴェルの最も初期の歌曲『愛のために亡くなった王女のバラード』で見られる。この曲の中世ヨーロッパのモード、ドリア・モードの使い方はサティの影響だと見られている。この曲にはアメリカの作家エドガー・アラン・ポーの詩、『ベル』の影響も見られる。ポーもラヴェルの作風に大きな影響を与えた人だった。サティの影響については、他の初期の歌曲『Sainte』や『Un grand sommeil noir』でのコードのオスティナート・パターンにも感じられると言われている。

ラヴェル(1875年3月7日 – 1937年12月28日)はドビュッシー(1862年8月22日 – 1918年3月25日)やサティ(1866年5月17日 – 1925年7月1日)よりも10年位若かった。そして、ラヴェルはドビュッシーからの影響を常に認めていたが、ドビュッシーの音楽と自分の音楽の違いについても主張していた。ドビュッシーはピアノでの即興演奏がとても上手な人で、ピエール・ルイスのサロン・パーティー等でもよく即興演奏しながら歌っていた事が有名だった。そして、その頃、即興演奏をしながら思い浮かんでいて音楽を後に多くの歌曲、『ペレアスとメリザンド』、そして室内楽の作品の中にまとめて行った。ドビュッシーは、作品を書きながら、何度も書き直して行った。非常に感覚的に作る作曲家だった。しかし、こうした作品の方法をラヴェルは取らなかった。ラヴェルは、ドビュッシーの作品には形式に対して規律に欠けている場合があるとも語ってしまっている。ここに二人の作風の大きな違いがある。

“I started the reaction against him in favor of the classics because I craved more will and intellect than his music contained.”(Ravel)
ラヴェルは古典的な形式をドビュッシーよりも大切にしていると語っていた。
ドビュッシーはラヴェルについてあまり良く言っていなかった。ドビュッシーはラヴェルの音楽は人工的に感じられる部分があると語っていた。(debussy is said to have objected strongly to a “dryness” and “artificiality” in Ravel’s music. )

ドビュッシーにとっても、ラヴェルにとっても、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーは大きな影響だった。しかし、その影響の取り入れ方に違いがあった。ドビュッシーはポーの物語に基づいたオペラを何度も始めていた。唯一ある形が残っているのは未完のオペラ『アッシャー家の崩壊』。(最近ではドビュッシーの研究家で作曲家のロバート・オーリッジが完成させたヴァージョンが演奏されている。)ドビュッシーはポーの古典的な形式に対する考え方よりも、ポーの描くイメージや世界観に影響を受けていた。
ラヴェルはポーの古典的な作風に対する考え方に最も影響を受けていた。ポーが自分の詩『からす』の方法論を分析する”The Philosophy of Composition” はラヴェルに特に大きな影響を与えた。そして、そのロジカルで計算されたな方法論を自分の作風に取り入れた。

ラヴェルの研究家、デボラ・モウアーは次のようにラヴェルの研究書で書いている:
Undoubtedly, the single most important influence upon Ravel was the mid-nineteenth century American writer, Edgar Allen Poe.
Ravel was spellbound by “The Raven” and emphasized with Poe’s description of its evolutionary process as presented in “The Philosophy of Composition” in objectified and mathematical terms.
Poe’s emphasis within the process of composition on deliberate, calculated and logical planning appealed to Ravel’s measured approach to musical composition.(from Ravel edited by Deborah Mower)

ラヴェルのサティについては新しい音楽の実験をするパイオニア として見ていた。サティが亡くなった後にラヴェルは語っていた。『サティは多くの進歩的な考えを持つ人にとってのインスピレーションだった。。。彼はドビュッシーの印象派的なアプローチを先にやっていながらも、音楽界をその方向性から抜け出る為のリーダーともなっていた。。。しかし、彼自身は自分の発見から完成された芸術を作るまでに至らなかった。』最後に語っている事は、サティは音楽技術的には弱かった、と指している。(ドビュッシーとラヴェルはオーケストレーションの天才として見られている。)

しかし、ラヴェルはサティの名前が世間に知られるように、最初にサティの曲を広めた人だった。また、サティにささげている有名な曲がいくつもある。
『マ・メール・ロワ』の第4曲目『美女と野獣の対話』のスコアには次の言葉が書いてあった:To Erik Satie, grandfather of the “Entrtiens” and other pieces, with the affectionate homage of a disciple.
この曲はラヴェル自身が『第4のジムノペディ』と呼んでいた。(ロバート・オーリッジの本”Satie The Composer” より)
ところで、私個人にとってはこの作品ラヴェルの『マ・メール・ロワ』は様々な音楽の中でも最も好きな作品の一つである。
ラヴェルの歌曲、『ステファヌ・マラルメの3つの詩』(1913)の3曲目、『壷のなかから一飛びに躍り出た』もサティにささげられている。これはサティが新しい音楽の実験をするパイオニア として見ているためにささげたものだと思われている。

サティは最初ラヴェルに恩を感じていた。この文章の初めにある言葉でそれは伝わると思う。しかし、サティが1917年のコクトーが企画した『パラード』の成功によってフランスの六人組からも時代の先駆者として認められると、ラヴェルについては人間はとても好きだが、古典的で古い考えの音楽を作る人として語るようになった。ラヴェルはサティについては、サティが亡くなるまで、意見を語らなかった。

この文書の初めのサティの文書にあったように、それぞれの作曲家にフォロワーやファンが出来てしまうと、その人間同士の関係で収まりそうな問題でも、他の人達が間に入ってしまうため、より複雑になり、友情関係になれたものも破壊されてしまう可能性がある。
人の人生とその人の作品について調べていくと、いろいろと人生について学べるものがある。それが重要だと僕は思う。

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