ここに書いてある言葉は『人はコーヒーには5ドルもだすが、いい音楽は無料が当たり前だと考える人が多くなっている。コーヒーを1杯作るにはお金がほとんどかからない。いい音楽を作って録音するには何十万から何百万もかかる。それを作るためにかかる年月の労力も、そこに含まなくてもだ。アーチストをちゃんとリスペクトして行こう!』
今でもいい音楽としてほとんどの人が聴いている音楽にはちゃんと後ろにはお金がかかって作られている。
クラシックの名曲も、それが作曲され、演奏されるための資金を誰かが出していなかったら、存在しなかった。19世紀から20世紀に、多くの名曲が生まれたのはアーチストがリスペクトされていたからだ。
あるヨーロッパの無神論者の哲学者に神の存在を感じる時がありますか、と聞くインタビューを最近見た。そうすると、彼はミサ曲やレクイエムを聴く時にと答えていた。いい音楽、ダンスやアートには”神”、あるいは言葉には出来ないような宇宙的な力を感じさせるところがある。ワグナー、リスト、ドビュッシー、ベルグ等の曲にはそのような力が出ているように思える。
20世紀は”民衆の世紀”と書かれる事が多いが、才能があると言われるような音楽家が”民衆の音楽”を書き出すと、ゴミくずのような音しか出て来なくなるのはいつも不思議だと思う。共産圏の国ではどうしてあれだけ多くの醜いプロパンガ・アートが出来てしまうのだろうか?もちろん、中には良いと思うものもあると思うが、少ない気がする。
音楽やアートは”神”のささげものとして存在しているように思えるところが大きく、それを無視しようとすると音楽も答えてくれないのではないだろうか?
そして、音楽につげこむ労力や資金も、その結果に影響を与える。もしも、今の音楽が貧しいという人がいたら、それは才能のある人がいないのではなく、貧しく扱われてしまっているからだと思う。良いと思う音楽家がいたらちゃんとサポートして上げよう。
