1986年のピーター・ハミルのインタビュー

1986年に『Nova Carmina』というタイトルのソロ・アルバムをAyuoはイギリスのバースという町のクレセントスタジオでレコーディングしていた。
僕の演奏した中世ハープのソロに乗せたいと思った朗読の文章は、カルミナ・ブラーナの詩集のなかにあるバースの町の牧師だったブロイスのペーターが書いた詩だった。
僕のこの提案を聴いたデヴィッドは、ピーター・ハミルがこの朗読にはぴったりだから彼を呼んだらどうか、と言った。僕はピーター・ハミルのソロ・アルバム『Fool’s Mate』、『In Camera』やヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーターの活動を知っていたので、びっくりした。デヴィッドは僕がOKするとすぐにピーターに電話して呼び出した。
ピーターは、バースから車で二〇分くらいの山の中の二本しか通りがない小さな町に住んでいた。彼はすぐに来てくれて朗読をレコーディングした。
その週末に、彼は僕を家に招待してくれた。車でバースのスタジオに迎えに来てくれて、一緒に彼の家に向かった。当時、彼の子供はまだ小さく、家族と一緒に暮らしながら、自宅で自分のソロ・アルバムを録音していた。車中、山の風景を指さしながら彼はこう言った。「自分の子供たちは、生まれたときからずっとほぼ同じ子供たちと付きあいながら育っています。今のような近代的な世の中では、これはめずらしいことでしょう」
家に入ると一階の奥の部屋に24トラックのテープ・レコーダーがあった。当時24トラックもあるものはまだ高価で、自分でもっているミュージシャンは少なかった。彼は、七〇年代に『Fool’s Mate』の録音をしていたころから、これからは自分で機材をもたなければやっていけない時代が来るかもしれないと感じて、機材を買いはじめていた。最初のうちは手作りのように始めていったが、このころになるともう熟練していた。そして、より良い新しい機材が出ると、それにどんどん買い換えていった。九〇年代にはADAT、二一世紀に入るとラップトップで自分のソロ・アルバムを録音するようになる。しかも、長年の録音経験を積んでいるから、仕上がりのクオリティーはデヴィッド・ロードが録音してミックスしたものに比べても変らないレヴェルになっていた。彼はひとりで録音、ミックス、マスターリングして、ひとりでプレスやジャケットなどの印刷を工場に発注し、自分でパックして世界じゅうに送るのだった。
このころレコーディングしていたのは『As Close As This』というアルバムだった。ポール・ライドアウトというデサイナー、プログラマーでピーターのライブのPAまでやる人が手伝いに来ていた。録音している曲を聴かせてもらった後、二階に行った。階段の下の壁には、今まで彼が演奏してきたミュージシャンの写真のコラージュが貼ってあった。ヴァン・ダー・グラフのライヴ・アルバム『Vital』の中ジャケットに使われていたメンバーの写真やデヴィッド・ロードの写真もあった。

この二階の部屋で、僕はピーターと「キーボード・スペシャル」という雑誌に掲載するためのインタビューをした。以下は、そのとき彼が話してくれたことだ

大学で医学の勉強をしていた一九六七年、もうすぐ卒業というころだったが、バンド活動の方が面白くなって大学を中退してしまった。このバンドがヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーターになった。始めたころはちょうど「サイケデリック」が流行っている時期で、「プログレシヴ」が時代の流行だった時期まで、その時代の波に乗っているとか乗っていないとか言われながら続けてきたんだ。
僕らが最初にバンドを始めたころは、8トラックが最新のテクノロジーだった。多少のエコーとテープ・エフェクト以外は、自分たちですべての音をスタジオに入る前にあらかじめつくっておかなければいけなかった。ライブも、その時代にはモニターがなく、PAもほとんど原始的なものだった。あのころはまだ、ロックは今のようにビッグ・ビジネスではなく、もう少し「カウボーイ」的な存在だった。
最初、イギリス国内で三~四日間ライブを演奏することから始め、そのうちヨーロッパのツアーに出かける事が多くなった。時間が空くと歌を書くことに集中した。一週間でも家で休むことができると歌を書いていた。
歌は、哲学的な内容から宗教的な問題、人の持つ信念、時間と空間の捉え方などを表現することができる。僕にとってロックというのはそういう内容を感情的に表わすものだと思っている。もしも文章だけだったら、僕の哲学をそれを生んだ自分の感情から切り離して書くことになる。歌の場合はその音や言葉に感情的な表現が入る。そしてそれが音楽的な表現になっていく。
言葉には同時にいろいろな意味をもたせることができる。僕はそういう歌を書いているつもりだ。「私」が自分の物語を語っているのではなく、「私」という人物が登場するストーリーになっている。それを聴いてくれる人は、そのストーリーに対してそれぞれ自分の解釈をする。こういう客観的なタイプのコミューニケーションを僕は好むね。
僕の書いてきた歌をテーマ別に分けてみるならば、短編小説的なもの、映画のワンシーンのようにある部屋のなかでおこる出来事、言葉の遊び、人間の夢、時空のなかで起きる問題、人間の信念などいろいろな種類になるだろう。
僕は、自分ではそれをどのようなカテゴリーに入れたら良いのか、なかなかわからない。ロックと言えるのか、ポップスと言えるのかもわからない。自分が使いたいものを吸収して、自分の表現にしているだけだ。歌というのは最も国際的、あるいは宇宙的とも言えるようなテーマを表現することができる。言いたいことが明解であれば、ほとんどの曲は一日か二日でできてしまう。
一緒にやっているメンバーは一九歳から関係が続いている者も多いので、ほとんど顔を合わせなくてもテレパシーのようなコミュニケーションがお互いに成立している。
今のミュージック・シーンはどんどんビジネスだけに集中しているが、これからの時代に対しては大きな期待を持っている。というのも、テクノロジーの発達によって、もっといろいろなことができるようになるからだ。商業的な音楽がどんなことをやっているにしても、(それとは関係なく)自分で機材を集めてつくるということがより簡単になる。そうするうちに、大きな会社もそういった場所から発達した音楽を無視できなくなってくるはずだ。
八〇年代の初めごろには、ロックをよりオーソドックスなものにしようという動きがあった。例えば、今「パンクだ!」と言うとしても、なぜあの時代のなかにおいてパンクが必要だったかという問題を無視しながら、ひとつのファッションとして変な格好をしたバンドを「パンク」と言って連れて来てもなんの意味もない。形だけのものになったら、二〇年間続いてきたロックはそこで意味がないものとなって終わる。

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