ジョン・ケール・インタビュー 2001年

ジョン・ケール・インタビュー 2001年

これはタワーレコードのフリーマガジン、INTOXICATEやMUSEEのためにAyuoが取ったインタビュー。当時、雑誌に載ったのは新譜の話しを中心としたCDのプロモーション用のインタビューの部分だったが、実際は一時間も長いロング・インタビューを取っている場合が多かった。そして、その話がとても面白い。また、このようなインタビューのテープはたくさんあった。一冊の本がインタビューで埋まってしまうほどあった。それを次々と聴き起こして出版できるように用意をしている。

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ジョン・ケール・インタビュー 2001年

1960年代後半のニューヨークはロック、ジャズ、実験音楽、演劇、フィルムなど色々なジャンがそれぞれエネルギッシュでしかもお互いに交流があった時代だった。そのような時代はその後、見ていないし、当分ないかもしれない。
僕と僕の両親がニューヨークに渡ったのと、同じ時代に英国のウエールズからニューヨークに行って、ギリシャの作曲家、ヤニス・クセナキスに作曲を学んでいた音楽家、ジョン・ケールがいた。彼はミニマル・ミュージックの父と呼ばれているラ・モンテ・ヤングと実験音楽のグループを作ったり、ルー・リードと共にヴェルヴェット・アンダーグラウンドを結成した。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとそのメンバー達の活動は僕にとって最も影響を受けた人達の一つだ。ルー・リードの詩と歌。ニコの作曲する中世ヨーロッパのモードの歌。ジョン・ケールの音楽やアレンジ。小学一年生の時から、今や有名なアンディ・ワォーホルのバナナのジャケットが家にあった。
小学生の頃は、よく母親と日本から来ていた横尾忠則、寺山修司や篠山紀信などとニューヨークの有名なダンスクラブ、エレクトリック・サーカスに行っていた。エレクトリック・サーカスの下にドームと言うライヴハウスがあった。そこでヴェルヴェット・アンダーグラウンドのメンバーも演奏しているのを見かけた。ルー・リードのヴェルヴェット・アンダーグラウンドが解散する前の最後のライヴの時も、母親と義父と共にマックス・カンサス・シティにいた。中学生の頃には、デヴィッド・ボウイやジェネシスのアルバムと共にヴェルヴェット・アンダーグラウン、ルー・リード、ニコ、ジョン・ケールのアルバムを繰り返し聴いていた。音楽だけじゃなく、その詩の世界にも大きな影響を受けた。ヴェルヴェット・アンダーグラウンの曲『The Gift』でサイケデリックなバンドの響きの上に語られるジョン・ケールの朗読は僕にとって革新的だった。

ジョン・ケールに2001年に長いインタビューをした。いろいろなことが聞けた。
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Ayuo: 今もニューヨークに住んでいるのでしょうか?
ジョン・ケール: そう。
Ayuo: でも、よくウエールズに帰っていますね。
JC: 親戚がいるから、時間がある時は戻るようにしている。自伝を書いた時に知らなかった父親側の親戚を最近発見したんだ。そこで自分の家族について知らなかったことをたくさん学んだ。自分がティーンエイジャーだった頃に気になっていたが、誰も教えてくれなかったことなど。自伝には正しいことを多く書いたが、間違っていることもあった。
自分の母親側のお婆さんがあまり好きじゃなかったんだ。お婆さんは、お母さんがガンになったことをみんなの前で僕のせいにした。13歳の僕には、どうして僕のせいにしたのか分からなかったんだ。お母さんは乳がんで、手術をした。しかし、保守的な社会だったから、乳がんという言葉を誰も口に出さなかった。口出すことさえも禁じられていた。お母さんはすごく近い存在だったのに、突然ある日から家にいなかった。何が起こったのか、誰も説明しなかったし、誰も分からなかった。
僕の父親側のおばさんがこないだ僕に語ったことが、僕のお婆さんがどんな人がだったかが分かる話だった。僕の父親は南ウエールズのカーディフから来た人で石炭労働者だった。だが、彼は英語はを話さなかったが、僕の母と結婚した時、彼女の家族と一緒にウエールズ語を話すウエールスのガーモントに引っ越した。僕の母の母は家庭では英語を使うなと言ったので、彼は家で何も話せなくなった。
聞いていて気持ち悪くなるような話だった。

A: それでは父親とあまりコミューケーションが取れなかったのですか?

JC: 僕はウエールズ語しか話せなかったし、彼はウエールズ語を話せなかった。英語は僕が七つになって、学校に行き出すまで習わなかった。だから、コミューケーションが問題だった時期があった。そして、ぼんやりとしていた記憶の理由が明解に分かった。
では父とはどうやってコミューニケーションを取れたのだろうか?それは多分音楽のようなコミューニケーションの取り方に違いないと,
僕は思っている。音楽のようなコミュー二ケーションは英語やウエールズ語も超える事が出来る。音楽のようなコミューケーションで人と分かり合えるようになった事は僕にとっては他では得られない慰めになった

A: 育って行くときはどんな音楽を聴いていたのでしょうか?

JC: ラジオ。多くの情報はラジオから得ていた。
故郷はウエールズの宗教的にとてもきびしいところだっだ。日曜日にラジオを書けるな”“バッハなんだけど”“だめだ!”(神が休みの日としている。)』そんなウエールズに居た15、16、17歳の頃ベッドにもぐり込み、カヴァーを幾つも重ねて音が漏れないようにして、“ヴォイス・オヴ・アメリカ”、“ラジオ・ルックセンブルグ”を聴いていた。ジョン・コルトレーンや新しいジャズなど初めて聴いた音楽が多かった。
僕のCD『Music for a New Society (新しい社会のための音楽)』の曲、『Rise, Sam and Rimsky-Korsakov』はサム・シェパードの詩に基づいているけど、全世界の情報がラジオが来ている精神状態のことを表している。外の世界で行っていることに刺激を受けて、いつか絶対に飛び出してやると思っていた。
いろいろなところに行くことが昔から楽しかった。どこに行っても、人の顔を見ながら会話を聞くのが好きだ。見たり、聴いたりしているだけでも人間についてのたくさん情報が得られる。そして、世界中の人間は同じだ。ただ、表現の仕方が違っている。こうしたことが面白い。レストランで人の会話を見ているだけでも面白い。It fascinates me.

A: 子供の頃、ウエールズに伝統音楽はありましたか?

JC:たくさんあった。宗教。。オラトリオ、ヘンデルのメサイヤでヴィオラ奏者としてローカルのオーケストラから雇われることも多かった。

A: ジグ(ヨーロッパの伝統的な舞曲)などはどうでした?

JC: それがギグ(仕事)だった。音楽やっているクラブなどなかった。

A: ギグじゃなくて、ケルト系のジグのことを聞きたかったのでした。

JC: ジグはアイルランドの方だ。ウエールズの伝統曲は歌の曲が多かった。

A: ニューヨークに行く前のあなたの作品はどんな感じでした?
もっとメロディーを中心にしたものでした?
1990年代のCD『Words for The Dying』に収録したディラン・トーマスの詩に付けた作品オーケストラ歌曲はとてもメロディアスでしたね。

JC: ウエールズの詩人、ディラン・トーマスはウェールズで育つ者にとってはとても大きな存在だ。ドイツ人にとってのゲーテと同じだ。彼は英語を他の詩人がウエールズ語を使うように使った。ウェールズ語は、英語よりも少ない単語でより多くのことが表現できる。 ディラン・トーマスの詩に歌を付けるというのは私にとって大きなチャレンジだった。彼の詩の響きはもうすでに音楽であった。僕が学生だったときに、トーマスの言語のノイズの響きに圧倒されるほどたった。これだけもうすでに音楽的になっている詩にどうやって音楽を付けられるのだろうか?。 僕のCD ”Words for the Dying”「(ディラン・トーマスの詩による) 亡くなって行く人のための言葉」は、このチャレンジの答えだった。
当時、ブルー・オイスター・カルトのアラン・ラニエと一緒に、彼のスタジオで遊びでいろいろな音楽を録音し始めてみようかと話し合っていた時に、ディラン・トーマス全集の本を買って、これにチャレンジしてみることにした。そして、全ての詩に音楽を付けてみようということにした。これが僕に考えられる唯一の方法だった。毎週、月曜日に初めて、始めたものは必ず金曜日には終わっている。本に載っている全ての詩に音を付けてみる。こうした方法を取ることによって、パズルの答えを探すように自分にとっての答えをやっと見つけた。
そして、初期の曲については、君の言う通りだ。ニューヨークに行く前は、とてもメロディアスな作品を書いていた。その後で、抽象的な作品を書くようになった。抽象的になったのは、勉強中だったからだ。勉強している時は、なるべく多くの方法論を学ぼうとしていた。

Ayuo: どのようにしてニューヨークに行くことになったのですか?
僕の両親は音楽で僕が成功出来るように貯めたお金を僕に渡して、僕は最初ロンドンに勉強しに行った。そこで当時24歳だった作曲家、コーネリウス・カーデューと出合って、ニューヨークで行なっているFLUXUSの活動の事を知った。作曲家のコープランドのインタビューで合格してアメリカのタングルウッド・コンサーヴァトリーで勉強する学費(Scholarship)をもらえた。そこでギリシャの作曲家、ヤニス・クセナキスと出会い、彼に作曲を学び始めた。クセナキスに気に入られ、クセナキスのピアノ曲がニューヨークで演奏される時に彼に連れてってもらった。

1960年代の初め頃のニューヨークのロワー・イーストサイドでは何百人も自分は詩人だと言っている人たちがいた。そしてみんな仕事か恋人を通してつながっていた。毎晩のように音楽家、詩人、ダンサーと言っていている人たちは街角や屋根の上でもやっていた。ダンサーのステージ・セット代わりにフィルムはよく使われていた。そして間に詩の朗読があった。ラ・モンテ・ヤングは大きなロフトに何匹の亀と一緒に住んでいた。ヨーグルトを作って、オーガニックな食事を食べていた。彼のロフトは中東のアヘン窟のようだった。みんな床の上にすわっていた。彼はドラッグを売って生活をしていた。

Ayuo: クセナキスと作曲を勉強したのはいかがでした?

JC: 僕はクセナキスと出会う前から確率論など数学の哲学を勉強していたから、クセナキスの作曲理論は理解出来たが、それは彼の作品の凄さとはまた別の物だと思った。彼のノイズは凄かった。彼の音楽はギリシャの民族音楽のようだった。彼はオーケストレーションの事をよく分かって、スリリングな現代のギリシャの音楽を書く事が出来た。ヨーロッパでは自分のやっている事を理論的に説明しなければいけない風習がある。ジョン・ケージの場合はメソッド(方法論)があったが、それは禅の基づいていて、生きてゆく事の上での全体的な考え方だった。自分の作品を説明するだけ物ではなかった。
クセナキスと知り合う以前に、フーリエ理論や確率論といった現代数学の思想を学んでいたから、彼が何をしようとしていたか、なんとなく理解はしていた。だけど実際に音楽を聴いてこんな数学なんて彼の音楽とは何の関係もないと感じた。だって彼の音楽は素晴らしい。とてつもないノイズを音楽として作曲した。彼はどんな風にオーケストレーションすればいいのかが分かっていて、つまり刺激的なのはまさに、彼のオーケストレーションなんだ。
彼の音楽はギリシャの民族音楽のようだった。彼はオーケストレーションの事をよく分かって、スリリングな現代のギリシャの音楽を書く事が出来た。
ヨーロッパには少し、自分が何をしているかを理論的に説明しなければならない心的状態というのがある。ジョン・ケージが素晴らしいのは、彼には方法論(メソッド)があるからだけど、それは禅の影響に基づいているものだったりする。そして、それは世界観であって、自分のやっていることを正当化しようとするものではない。生きてゆく事の上での全体的な考え方だった。

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ジョン・ケールはラ・モンテ・ヤングの所でドラッグを売るのを手伝いながら、彼と一緒にグループを作った。みんなドラッグの販売で捕まってしまった時もあった。その時もクセナキスに助けをお願いするの手紙を書いた。
メンバーはラ・モンテ・ヤング、トニー・コンラッド、アンガス・マックリーズ、テリー・ライリーとジョン・ケールでとThe Theatre of Eternal Musicと名づけられれた。最初はラーガとブルースを混ぜたような音楽をやっていたが、ジョンが自分のヴィオラの自然倍音でインプロヴィゼーションをするようななると、ラ・モンテ・ヤングは自然倍音に基づく純正長を研究するようになる。そして伝説となったThe Theatre of Eternal Musicの音楽が生まれた。ラ・モンテ・ヤングは他のメンバーが辞めていっても、この時の音楽をやり続けた。ミニマル・ミュージックの父と自分で言うようになった。
トニー・コンラッドのレーベルから出ているジョン・ケールのCD『Sun Blindness Music』にはジョン・ケールのこの頃の純正長のインプロヴィゼーションが聴ける。彼はトーマスのエレクトリック・オルガンをラ・モンテ・ヤングの使っている純正長に調律して、キーボードのクラスター音を中心とした曲をインプロヴァイズした。その音楽にはクセナキスの影響ではないかと思わせるようなエネルギッシなノイズが聴ける。しかし、大きな違いは、その音は理論的に組み立てられているのではなく、即興的に作られているということだ。

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JC: トニー・コンラッドは1960年代半ば当時に録音した音源を聞きなおして3枚のCDに編集した。たくさんの音源があった。こうした音源は友人たちと部屋にいて、面白い音を作ってみようと思う時に出来るものだ。面白くて、笑ってしまうものもある。
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ジョン・ケールはルー・リードと共に結成したヴェルヴェット・アンダーグラウンドで知られてゆく。ルー・リードは元々からニューヨークのブルックリン出身の詩人・シンガー・ギタリスト・ソングライターでニューヨークに60年代に集まってきた色々なアーティスト、ダンサー、ミュージシアンや役者を彼の書く歌で描いた。ルー・リードのアルバム『Transformer』や『Berlin』でも、その姿がはっきりと伝わって来る。これらのアルバムの描いている世界が僕が子供の頃に見ていた世界である。
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A:ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは今や1960年代のバンドとして、最も影響を与えたバンドの一つだと思うのです。多くの1970年代のバンドはヴェルヴェット・アンダーグラウンドに影響を受けていた。

JC: まだ、100万枚売れていないと思うけど。少しづつ広がって行った。ルー・リードは、レコード会社が僕らにウソをついているんだ、と言ったけど、僕はそうは思わないな。60万枚位かもしれない。
影響は確かに与えた。だけど、それだけだ。

A; 前衛とロックをつなげたバンドとしてメディアでよく取り上げられていた。

JC: 最近の前衛はロックの中にあるように思ったりする。私達の世代は、ステージの上で何が出来るかを広げて行った。レイディオヘッドはレコーディングで何が出来るかを広げている。彼らは曲の構成をレコーディングによって変えている。今までの曲の構成と違っている。だから聴いていて面白い。表現力をたっぷりあるし。

A: まだ、僕はレイディオヘッドをたくさん聴いていないのですが、他に最近好んで聴いているものはどんなのでしょうか?

JC: 何かな? そうだ。レナード・コーエンの新譜にいい曲があった。Alexandra Leaving。これは古典として残る曲だ。

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A:ヴェルヴェットの後、初めてのアルバムはテリー・ライリーとのジョイント・アルバムでしたね。

JC: 初めてのソロ・アルバム『ヴィンテージ・ヴァイオレンス』を作れたのは、その前にテリー・ライリーとのアルバムを作ることによってやっていいとレコード会社に言われた。レコード会社はテリー・ライリーやラ・モンテ・ヤングなどの現代音楽系の作曲家達をもっとポピュラーに出来るレコードを僕に作って欲しかった。ちょっとポップな色を与えて欲しかった。でも、ラ・モンテは抽象的な事を言い出していた。CBSの人が、ラ・モンテと話すと、どんどん小さくなって行く円を思い出すとい言っていた。説得することが出来なかった。
でも、テリーは全然大丈夫だった。一つだけテリーが気にしていたのはと当時は16トラックしかなかったから、一つのトラックにテリーのオルガンを二つ録音しyてあった。ミックスの時に一つをもう一つのオルガンよりも大きく出したいと要求しyた時に、同じトラックに録音してあったからそれが出来なかった。でも彼が気になったのはそれだけだった。

A:良い思い出になっていますか?

JC: 楽しかったよ。それであっと言う間にできた。

A:1990年代では、スージー・アンド・ザ・バンシーズをプロデュースしましたね。

JC: あれは妙な体験だった。みんなが新しい作品を作りたいと言いながら、実際は誰も動かなかった。会う前は、彼らはエッジー(危険)な生活をするのが好きな人達で、いろいろことで実験するのも好きな人達だと思っていた。でも会うと、誰もが仕切りたくないようだった。あるいは、誰かがコントロールしないと出来ないと思っているが、その責任を誰も取りたくないという感じだった。だから僕は待っていた。僕が会った時、もうすでに15年間もバンドだった。バンドの世界ではそれは記録的に長い。だから、何とかアルバムを完成させた。
パティ・スミスからバンドは本当に気を付けなければいけないと学んだ。バンドというのはファミリーと同じだ。全体で一つだ。

A:パティからそれを学んだのですか?

JC: パティを始めてプロデュースした時、スタジオで君たちの使っているこれらの楽器は古いし、ネックが曲がっている。だから、最初の日に新しいギターを持って行った。僕はいいことをしてあげていると思っていた。いいギターを使えば、チューニングが狂うことに気にしなくていい。でも彼らにとってはそれが最低だった。『自分のギターの音が好きなんだ』って言われた。分かるでしょう?誤解を作ってしまった。だから、スージーをプロデュースすることになった時は、バンドであることをリスペクトしながらやって行こうと考えた。

A: ナム・ジュン・パイクは最近どこかで、自分たちの世代があまりにも多くのことをやってしまったから若い世代にはかわいそうだと言っていたらしいですね。

JC:それは、若い世代にもっと頑張れと言っているようなものだと思うよ。僕らが若かった頃と比べて、今の若い世代が別の立場にいると思わないね。我々は考え方の革命を起こしたのだと思う。ラ・モンテやナム・ジュン・パイクはフルクサスで多くのパフォーマンスをやっていた。そこからパフォーマンス・アートは始まった。ラ・モンテのComposition #3もそこで最初に演奏された。私たちがたくさんのことをやったから、新しい事をやるのが大変になったって?嘘だ。ナム・ジュン・パイクの言っていることを認めない若い人もたくさんいると思うね。『ここはアカデミーじゃないんだよ』って言ってね。

A: しかし、1960年代は多くの人が物事を変えたいという時代だった。多くの人がどうなるか、実験してみたかった。

JC: そう。それで、それは一人だけじゃなく、みんながそうだった。それは進歩するのが遅すぎると感じていたからだ。進歩はレニー・ブルースなどがやっていた。(アメリカの戦後のスタンド・アップ・コメディアン。)彼は一人で多くの影と戦っていた。そして、その影が何なのかまだ分かっていなかった。そして、それはアメリカの最高裁判所として現れた。そう見えるとマルクス思想的な精神状態になってしまう。体制と戦うには、別の体制を作ってしまおうという考えになってしまう。システムがなければ成功できないと思ってしまう。それを支える組織が必要だと思ってしまう。でも、そうじゃない。新しく支える組織は必要ない。ベトコンなどは、そうした組織が必要だと見せつけたかもしれないが、それは政府を作る場合だ。私達が言っていることはアイディアの革命の事だ。例えば、1960年代前半のコンサート・ホールで何が出来たか?何が許されるか?オノを持って来て、テーブルを割ってしまうのは、当時コンサート・ホールで許されなかった。それでも、タングルウッドの学校で、僕が学生の頃、作曲のコンペティションでそれをやるのを許可してくれた。本当はそういうことをやって欲しくなかった。アイディアを提出してから3週間も待った。でも、それをやる意味は、ショックを与えることにあった。

あの時、クーセヴィツキー夫人(ボストン交響楽団の常任指揮者であったセルゲイ・クーセヴィツキーの奥様)は客席にいた。そして、僕がテーブルをオノで割ると泣きながらホールの外に飛び出した。学生が大勢僕を待ち構えていた。その曲は長い間演奏してみたかったが、暴力的だったから演奏させてくれなかった。何をやろうとするのか学生たちは分かっていて、数人は卵を持って待っていた。
A: あなたに卵をぶつけようとしたんですね?
シーズンの最後のコンサートだった。言わなくても分かると思うが、作曲のコンペティションで賞はもらわなかった。
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ジョン・ケールはこのインタビューの後で、ウエールズの最も有名な神話、『Mabinogion』の一時間半のアニメーション映画の音楽を担当しに行く。その映画はウエールズ語と英語での曲がたくさん入る予定だ。それ以外にもウエールズの文化を紹介する作品とかかわるようになってきた。
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JC: 『Beautiful Mistake』というウェールズのバンドが出ている映画の音楽にもかかわることになった。ウエールズ語で歌うスーパーフューリーズやカタトニナ。そしてウエールズの民謡を演奏するたくさんのバンド。カーディフについてのドキュメンタリーなんだ。これを見て、ヨーロッパの都市になったな、と思った。まるでキエフみたいに見える。昔はただ汚い都会だと思っていた。いまではモダンなビルがたくさんある。
A: 音楽監督としてかかわっているのでしょうか?

JC: そうだね。カタト二アやスーパーフューリーズとも共演している。ウエールズ語の曲もある。スーパーフューリーズはウエールズ語で歌っている。彼らは自分たちのアイデンティティについて本当に語って来たバンドだ。『私たちはウエールズ人だ。私たちはウエールズ語で歌う。』そして成功している。

A: ウエールズ語で歌った曲は今までないですね?
JC: やっていなかった。本当はやりたかったけど。でもいい詩を選ばないといけない。だから今回はいいチャンスだ。僕はウエールズの伝統的な詩のサークルに入っている人を知っている。その人と誰と共作をするべきかを相談している。まだ、やっていないけど、その機会は来る。

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ビル・ブルフォード (ビル・ブラフォード)インタビュー

ビル・ブルフォード (ビル・ブラフォード)インタビュー
Bill Bruford Interview – February, 2001

これはタワーレコードのフリーマガジン、INTOXICATEやMUSEEのためにAyuoが取ったインタビュー。当時、雑誌に載ったのは新譜の話しを中心としたCDのプロモーション用のインタビューの部分だったが、実際は一時間も長いロング・インタビューを取っている場合が多かった。そして、その話がとても面白い。また、このようなインタビューのテープはたくさんあった。一冊の本がインタビューで埋まってしまうほどあった。それを次々と聴き起こして出版できるように用意をしている。

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イエスや、キング・クリムゾン、ブラッフォードというバンドを聴いてきた私と同じ世代の人達にとって、ビル・ブルフォードは、いわば伝説、である。だから、彼を取材することはとても大切なことだった。彼は、イエスの『Fragile (こわれもの)』や『Close To The Edge(危機)』といったアルバムでは、作曲のアイデアという点でとても重要な役割を果たしていた。やがて、キング・クリムゾンで彼のドラムのスタイルを固め、1970年代後半では作曲やジャズ色の強い彼自身のアルバムを制作し始めた。1986年、彼は当初、ジャンゴ・ベイツ、イアン・ベラミー、ティム・ハリスとアースワークスを結成した。1990年代のイエス、キング・クリムゾンの再結成に参加した後、1997年にはエディ・ゴメズ、ラルフ・ターナーとジャズ・トリオをレコーディング、以来彼は、生楽器にこだわったジャズのスタイルに戻って行った。1998年、彼は新しいメンバーとアースワークスを再結成した。彼自身によれば新たなアースワークスは、ビル・スチュアート、(パット・メッセニー・トリオのドラマー、彼の『Snide Remarks』はビルに大きな影響を与えたと認めている)とデイヴ・ホランド・クインテットの間に位置付けられているという。以下の収財は、2001年の2月、アースワークスの3日間にわたる東京公演中に行われた。

———-ドラミングと作曲について————-

Ayuo: 最近のあなたの演奏は、どんどん変化しながら進化していますね。

Bill: もっとジャズの要素が強くなった。アコースティックで、もっと自由なプレイができるようになった。

Ayuo: 常に何か変化しているような音楽だった。それを全部見ながらディレクションをだしていた。60年代の初期のヴィレッジ・ヴァンガードといった場所で演奏されたジャズのような刺激がありました。

Bill: そう願いたいね。刺戟的じゃないと。よく知られた古典的なジャズ・カルテットのサウンドだからね。だからいかにこうした音を料理し、ちょっとした違いを何で作り出すかということが面白いんだけど。変拍子とリズミックな素材を使ってみているんだけ、このジャンルでは普通じゃないと思うんだ。

A: 昔から独自のスタイルを持っていたと思うのですが、最近でのアースワークスでのドラムのスタイルはアースワークスの最初の時期とも違いますね。その頃は、もっとリズムのグルーヴ感が主張されていた。ファンク・グルーヴが多かった。しかし、そこでも独特のフィルを入れていた。

B: その通り。でも一番大きな違いは、最初のアースワークスではエレクトリック・ドラムを叩いていたことだ。エレクトリック・ドラムは面白いが、叩くスタイルも作ってしまう。それをもう何年もやって来たから今はアコースティックで叩きたい。

A:とてもメロディアスでもありますが、それはエレクトリック・ドラムと関係があるのでしょうか?

B: もちろん。ドラマーがメロディーを奏でるというアイディアはとても気に入っているんだ。とくにマックス・ローチなんかね。アースワークスの最初の3枚ではドラマーがパッドでコードを叩いて、コード進行をリードすることもできた。. “Bridge of Inhibition”, Strombolli licks”, “Pilgrim way.” メロディーをドラマーが叩けるというのは最高だった。しかし、技術的には流行遅れだし、難しく、不安定なんだ。今は聴きたいメロディーを5線譜に書いて、それを演奏してもらう。
A: 今まで、この最近ほど細かい演奏をしていた時期はあったでしょうか?パーカッションの要素も入っているし。

B: そうだね。それも全てワン・テイクで録音している。多重録音はしていない。一曲、一曲がドラムのための作品でもある。

A:初期のアースワークスでは、ジャンゴ・ベイツや、イアン・ベラミーが大半の作品を書いていたわけですが、今回、ほとんどがあなたの作品ですね。
B:ジャンゴ・ベイツや、イアン・ベラミーは素晴らしい作家だよ。最初の頃は、シモンズのドラムキットで、リズムのフレーズを作りたかったんだ。だから、『俺はこれをやるから、君らは好きなことをやってよ』なんて言っていたんだ。今では、シモンズのドラムキットもないし、結局は全ての音楽を書いている。もし,
改善や訂正をスティーヴ・ハミルトンが必要とするなら、彼のクレジットも加えている。

最近は面白いリズムのアイデアがたくさん思い浮かぶ。ドラムのタイミングも大丈夫そうだ。メロディーを書くのも好きだ。今回のアルバムにはいいメロディーを書けたよ思っている。和声楽についてもオーケーだが、スティーブはもっと複雑なコード進行にしてくれることもできる。特にバラードでは、その方が良かったりする。ソフィスティケートされたジャズのハーモニーに。この部分が僕の弱いい部分だ。

A: 最初のソロ・アルバム、『It Feels Good To Me』のライナー・ノーツで、これらの曲が初めてピアノの前に座って書いた曲だと書いていましたね。
B:それは本当だ。
A:そして、時間がだいぶかかったと書いていましたね。
B: ピアノはあまり上手ではないからね。 それでも、少しづつ良くなっている。
A:今でもピアノで作曲しているのでしょうか?
B: そうだね。新しいアルバムでは、全曲ピアノで書いたんだ。それからラフなデモをMC-500で作った、ミュージシャンに聴いてもらうのにね。それから、今度は、コンピューターに接続して、シベリウス音楽ソフトを使って、スコアにするんだ。そうしてリハーサルをした。議論し、多少変更した。二度目の草橋を作り、リハーサルをもう一度。さらにミュージシャンから意見を聞く。三度目の草橋を仕上げる。これで終わり。リハーサルをやって、ツアーに出る。イギリス国内20都市のツアーをやって、3-4日かけてCDを作る。
A: 近年のイギリスのジャズ・シーンはいかがでしょうか?
イギリスのジャズ・シーンの問題はイギリス人そのものにあると思うね。多くのイギリスのジャズ・ミュージシャンは未だに自分たちはinferiorだと思っている。アメリカの黒人のプレイヤーにかなわないと思っている。でもその中には世界の一流のプレイヤーもいる。彼らの心が小さすぎる。日本と同じように私たちが島国だからかもしれない。そし音楽的にてアメリカの影に生きてしまう。文句を言いながら過ごす人もいる。アースワークスのいいところは、僕はいいミュージシャンをイギリスの外に連れ出して、進化出来る状況を与えられることだ。東京、ロス・アンジェロス、リオ・デ・ジェネロ、や他の場所にも連れて行ける。そうして耳を開かれるようになり、どんどん良いミュージシャンになって行ける。僕はまだ固まっていない若いミュージシャンと演奏するのが好きだ。だから、お互いにとっても良い。

————ワールドミュージックとアースワークス———–

A: 『Bridge of Intuition』とか、新たなアースワークスのアースワークスの最初のアルバムから昨晩演奏された作品には、バルカンのジプシーのメロディーを使っていましたね。

B: その通り。今回のアルバムのThe wooden man sings and the stone woman dances だね。ジャズの演奏家と聴き手はいつもダンスで結びつけられていたんだけど、それが、ルーマニアのダンスだ、ということなんだ。

A: つまり、ルーマニアのジプシーの音楽をよく聴かれているってことですか?

B: ああ。でもひとつのことにしか関心がないってわけじゃないよ。だって、いろんな音楽が聴こえてくるでしょう。日本の太鼓もあるし、ブラジルのサンバ、ルーマニアのジプシー、それにアートロックも。全てがアースワークスから聴こえてくる。我々はいろんなところの音楽を利用しているんだ。イギリス人であるたった一つのいいところは、我々が我々自身のリズム文化を持たない、ということ。イギリスのリズムなんて、最悪さ。だから、私のリズムの全てが、他の場所から持ち込んできたものなのさ。鳥が巣を作るのにあちらこちらからいろんなものを集めてくるようにね。それがジャズだとも言えるんだけど。アフリカ系アメリカの音楽としてのね。だけどそれ自体が、スペインやアフリカの音楽のフュージョンなんだ。それはミクスチャーでもあったんだ。そして、今や、ジャズは国際的なスポーツなのさ。いろんなところから影響されているんだ。アースワークスなんだよね。

A: バルカン音楽が最近面白いですね。数か月前に、ここに演奏しに来たルーマニアのジプシーのクラリネット奏者と会ったんです。彼はもっとジャズをやりたいと言っていました。自分のルーツに即した音楽の方が売りやすいんですね。ヨーロッパをツアーした日本のクラリネット奏者も、ジャズやロックの要素が。。。なのですが、チンドンの音楽としてプロモーションしてました。それで思うのですが、ルーツを分かったんだから、ワールドミュージックの次のステップは、もっと自由にやりたいことをやるということじゃないでしょうか?

B: 私もその通りだと思う。世界中の音楽からの影響や、それらを混ぜ合わせてもいいんだということで、私たちは実に開放されてきたんだ。二日もあれば、ロンドン、ロスアンジェルス、リオ・デ・ジェネロに行って帰って来られるんだ。世界は狭くなっているんだ。ありえないことだけど、たった一つのやり方でしか音楽をやっちゃいけないなんていう人なんているだろうか?大半の人は、『ああ、面白いね。それと、それで、あれをつくったの。すごい。』って言うよね。

A: 世界のいろんな音楽をやっている人と計画されていることはありますか?

B: ええ。そういうことがあれば、必要な時にね。ただ、私としては、これ以上新しいことを立ち上げることができない。とりかかっていることがたくさんあるからね。時間をとられるんだ。私は、アースワークスがどんな風に発展するか楽しみなんだ。

————–イエス、キング・クリムゾン、ジェネシス——-

A: アンダーソン、ブルフォード、ウエイクマン、ハウで演奏していた頃、実際は当時のアースワークスで叩いていた同じスタイルで演奏していましたね。音楽そのものは別のものだったけれど。イエスの初期の頃の演奏のスタイルとは同じ曲でも違ったスタイルで演奏していましたね。
B: (笑)そうかもね。
あれは僕にとっては昔の友人達とヴァケーションに行くようなものだった。クリエイティブなものは特になかった。もうすでに書かれた音楽を演奏していた。それでも、一日か二日位は、あのバンドABWHは、いいバンドになれる可能性もあった。

A: キング・クリムゾンを思いだしてしまう曲が新しいアルバムに一曲ありますね。
B: そうかもしれない。どの曲?
A: 『Half – life』
B: その曲にはロックのフィールがありますね。ロバート・フリップは、僕にとって大きな影響だった。最高のグループだった。本当に好きなものを止めなければいけない時が来るのかも。それは自分が作らなければいけないもののためだけど。アースワークスをやりながら、クリムゾンを同時にやることは出来ない。しかし、アースワークスにはクリムゾンからの影響がたくさん入っている。よく、自分がアースワークスのリハーサルでロバート・フリップが言いそうなことや、過去に僕に言った事をメンバーに言っている自分に気が付く。音楽についての哲学的な考え方。ジャズ?ロック?関係ない。アンプを使って演奏している音楽とアンプを使わないで演奏する音楽がある。
音楽に対する態度にも影響を受けている。弾かなければいけないフレーズが聴こえて来なければ、弾かない。何も聴こえて来なければ、何も弾かない。

A: 過去のあなたのインタビューで読んだことがあるのですが、よく音楽ジャーナリストはイエス、キング・クリムゾン、ジェネシスを一つのスタイルや音楽ジャンルとして一緒にしてしまうことが多い。しかし、自分はこの3つのバンドは全部一緒に演奏をしたことがあって、こんなに3つ違っている方法でやっているバンドはないと思うといっていました。その具体的な例を上げてもらえるでしょうか?
B: イエスはかつても、今でもビーチ・ボーイズをモデルとしたヴォーカル・グループだ。キング・クリムゾンは前衛ジャズ・グループ、歌よりも音楽に興味を持っている。イエスはダイアトニックな音階を使う。キング・クリムゾンは全音音階なども使う。イエスはビーチ・ボーイズ、フィフス・ディメンション、ヴァニラ・ファッジなどのアメリカのポップスに基づいていた。キング・クリムゾンはヨーロッパの前衛音楽に基づいていた。これは全く違うやり方だ。クリムゾンのリハーサル・ルームでは、あまり話さないで、音楽をたくさん演奏する。イエスのリハーサル・ルームは話が中心であまり音楽を演奏しない。全く違った考え方だ。そして、ジェネシス?イエスやクリムゾンにいた時、ジェネシスは私達を真似しているバンドだと思っていた。私たちが始めたことを少し遅れてやっていた。勿論、メガスターになれたのはジェネシスだったけどね。そして、僕がジェネシスで演奏した時は、初めてクリエイティブな段階でかかわっていない音楽を演奏する事になった。人の音楽で、自分が全然その作る時にかかわっていなかったというのは、その音楽に対してあまりエモーションを感じていなかったということだ。イエスやキング・クリムゾンでは、その音楽を一緒に作っていた。自分たちが作った音楽だ、というプライドを持っていた。ジェネシスではスタジオ・ミュージシャンの立場にいた。そして、スタジオ・ミュージシャンとしては自分の程度が悪かった。彼らのせいではない。完全に自分のせいだ。まだ、僕は若かった。バンド・リーダーで作曲家になりたかったが、まだ、やり方が分からなかったから、その間にジェネシスにいた。

A: 『Heart Of The Sunrise』などのイエスの曲に共作者としての作曲家のクレジットが入っていますが、どのように作曲にかかわっていたのでしょうか?

B:今でもこれがロック・ミュージックの問題だが、あの頃は、リハーサル・ルームでみんなで座って、何を弾くべきかを探すのだった。紙には何も書いていないし。だから、何時間もかかってしまう。誰かがベース・リフを作る。そすると、別の人が『いいね。キーボードでこのように弾いてみようかと言う』そすると、最初の人が『それは嫌だ。こんなふうにやりたいんだ。』と言って違うフレーズを弾いて見せる。そうすると、口喧嘩になる。それで、もう一度最初からやり直しになる。そして、みんながアイディアを言い合う。『Heart Of The Sunrise』では何かのベース・ラインを考えたに違いない。(そして、Heart Of The Sunrise』の最初のベース・ラインを歌って見せる。)イエスではたくさんのベース・ラインを作ったよ。僕はドラマーだから、まずベース・ラインが気になる。
何年も経ってから、アンダーソン、ブルフォード、ウエイクマン、ハウ、は独立したグループとして本当のいいバンドになりそうな時期があった。しかし、イエスにした方が売れるということになり、最後にはめちゃくちゃになったよ。
A: ABWHのCDで”Be gone you power play machine, we don’t need your gold (and money)” 『パワー・マシーン、あっちに行け!君のお金も金もいらないよ。』と歌っていますね。

B: それはアンダーソンだね。そう歌っても、次には大きな契約を持ってくるね。彼にとっては、その(コマーシャルなマーケットの)パワー・マシーンが必要なのだね。彼はクレイジーやつだけど、いいやつだよ。クレイジーだけど良い。

最近のフィル・コリンズのインタビューで、フィルはあなたに大きな影響を受けたと語っていましたね。彼はしょっちゅうイエスを見に行って、あなたのドラムのパートを全部学んだと語っていた。

B: そうしていたね。フィルは素晴らしいドラマーだ。ジェネシスはイエスに影響を受けた。そして、僕はキング・クリムゾンに影響を受けた。
みんなプログレシヴ・ロックと呼ばれているけど、考え方はそれぞれ全く違っている。今になってそれが見えて来ていると僕は思う。最もアーティスティックなグループはキング・クリムゾン。ハートが正しいところにある。イエスは自己パロディーのグループになってしまった。まるでトリビュート・バンドが自分の音楽を演奏しているように聴こえてしまう。まるで本物のイミテーションだ。ジェネシスは商業的に成功したバンドになったが、今や解散してしまったと思う。だが、キング・クリムゾンはまだ生きていて、アイディアも持ち続けている。それは変化足続ける勇気を持っていたからだと思う。君もそう思わないか?
A: まだ、彼らの新しいCDは聴いていない。
B: 僕は彼らの新しいCDは好きではないが、それは彼らのせいではない。
A: 僕はミニCDの『Vroom』の方がフルCDとして発売された『THrak』よりも好きだった。『Vroom』の方がエクサイティングだと思った。そして、その頃のライヴを見に行った。
B: ライヴではどうだった?
A: あなたの演奏は好きだった。
B: なぜ6人必要だったのかが分からなかったのかも。
A: 分からなかった
B: 実は僕も分からなかった。
A: ドラムはあなた一人で十分だと思った。
B: 僕も一人の方が良かった。でもロバート・フリップが、この人はドラムを叩くことになるけど、君も一緒に演奏するかと聞いてきた。だから、『いいよ』と答えた。それからパットと一緒に二人で面白く出来るリズム・パターンを考えて行った。『Sex, Eat, Drink, Sleep, Dream』という曲がある。その曲の真ん中の部分のリズムはスゴイ。最高の出来になった。『Baboon』はうまく出来たドラムのデュエットだった。でもこれはやらなければいけない状況から出来たものだった。だから、うまく行くように頑張った。
A: そして、その後の時期が今のあなたのスタイルに進化したのですね。
B: そうだ。1998年以来、アースワークスにフルタイム与えている。プレイはもっと自由になって来ている。もっとジャズの要素が強くなった。ダイナミックスも良くなった。もっと良いミュージシャンになった。そしてもっと良いバンド・リーダーになれた。

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1986年のピーター・ハミルのインタビュー

1986年に『Nova Carmina』というタイトルのソロ・アルバムをAyuoはイギリスのバースという町のクレセントスタジオでレコーディングしていた。
僕の演奏した中世ハープのソロに乗せたいと思った朗読の文章は、カルミナ・ブラーナの詩集のなかにあるバースの町の牧師だったブロイスのペーターが書いた詩だった。
僕のこの提案を聴いたデヴィッドは、ピーター・ハミルがこの朗読にはぴったりだから彼を呼んだらどうか、と言った。僕はピーター・ハミルのソロ・アルバム『Fool’s Mate』、『In Camera』やヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーターの活動を知っていたので、びっくりした。デヴィッドは僕がOKするとすぐにピーターに電話して呼び出した。
ピーターは、バースから車で二〇分くらいの山の中の二本しか通りがない小さな町に住んでいた。彼はすぐに来てくれて朗読をレコーディングした。
その週末に、彼は僕を家に招待してくれた。車でバースのスタジオに迎えに来てくれて、一緒に彼の家に向かった。当時、彼の子供はまだ小さく、家族と一緒に暮らしながら、自宅で自分のソロ・アルバムを録音していた。車中、山の風景を指さしながら彼はこう言った。「自分の子供たちは、生まれたときからずっとほぼ同じ子供たちと付きあいながら育っています。今のような近代的な世の中では、これはめずらしいことでしょう」
家に入ると一階の奥の部屋に24トラックのテープ・レコーダーがあった。当時24トラックもあるものはまだ高価で、自分でもっているミュージシャンは少なかった。彼は、七〇年代に『Fool’s Mate』の録音をしていたころから、これからは自分で機材をもたなければやっていけない時代が来るかもしれないと感じて、機材を買いはじめていた。最初のうちは手作りのように始めていったが、このころになるともう熟練していた。そして、より良い新しい機材が出ると、それにどんどん買い換えていった。九〇年代にはADAT、二一世紀に入るとラップトップで自分のソロ・アルバムを録音するようになる。しかも、長年の録音経験を積んでいるから、仕上がりのクオリティーはデヴィッド・ロードが録音してミックスしたものに比べても変らないレヴェルになっていた。彼はひとりで録音、ミックス、マスターリングして、ひとりでプレスやジャケットなどの印刷を工場に発注し、自分でパックして世界じゅうに送るのだった。
このころレコーディングしていたのは『As Close As This』というアルバムだった。ポール・ライドアウトというデサイナー、プログラマーでピーターのライブのPAまでやる人が手伝いに来ていた。録音している曲を聴かせてもらった後、二階に行った。階段の下の壁には、今まで彼が演奏してきたミュージシャンの写真のコラージュが貼ってあった。ヴァン・ダー・グラフのライヴ・アルバム『Vital』の中ジャケットに使われていたメンバーの写真やデヴィッド・ロードの写真もあった。

この二階の部屋で、僕はピーターと「キーボード・スペシャル」という雑誌に掲載するためのインタビューをした。以下は、そのとき彼が話してくれたことだ

大学で医学の勉強をしていた一九六七年、もうすぐ卒業というころだったが、バンド活動の方が面白くなって大学を中退してしまった。このバンドがヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーターになった。始めたころはちょうど「サイケデリック」が流行っている時期で、「プログレシヴ」が時代の流行だった時期まで、その時代の波に乗っているとか乗っていないとか言われながら続けてきたんだ。
僕らが最初にバンドを始めたころは、8トラックが最新のテクノロジーだった。多少のエコーとテープ・エフェクト以外は、自分たちですべての音をスタジオに入る前にあらかじめつくっておかなければいけなかった。ライブも、その時代にはモニターがなく、PAもほとんど原始的なものだった。あのころはまだ、ロックは今のようにビッグ・ビジネスではなく、もう少し「カウボーイ」的な存在だった。
最初、イギリス国内で三~四日間ライブを演奏することから始め、そのうちヨーロッパのツアーに出かける事が多くなった。時間が空くと歌を書くことに集中した。一週間でも家で休むことができると歌を書いていた。
歌は、哲学的な内容から宗教的な問題、人の持つ信念、時間と空間の捉え方などを表現することができる。僕にとってロックというのはそういう内容を感情的に表わすものだと思っている。もしも文章だけだったら、僕の哲学をそれを生んだ自分の感情から切り離して書くことになる。歌の場合はその音や言葉に感情的な表現が入る。そしてそれが音楽的な表現になっていく。
言葉には同時にいろいろな意味をもたせることができる。僕はそういう歌を書いているつもりだ。「私」が自分の物語を語っているのではなく、「私」という人物が登場するストーリーになっている。それを聴いてくれる人は、そのストーリーに対してそれぞれ自分の解釈をする。こういう客観的なタイプのコミューニケーションを僕は好むね。
僕の書いてきた歌をテーマ別に分けてみるならば、短編小説的なもの、映画のワンシーンのようにある部屋のなかでおこる出来事、言葉の遊び、人間の夢、時空のなかで起きる問題、人間の信念などいろいろな種類になるだろう。
僕は、自分ではそれをどのようなカテゴリーに入れたら良いのか、なかなかわからない。ロックと言えるのか、ポップスと言えるのかもわからない。自分が使いたいものを吸収して、自分の表現にしているだけだ。歌というのは最も国際的、あるいは宇宙的とも言えるようなテーマを表現することができる。言いたいことが明解であれば、ほとんどの曲は一日か二日でできてしまう。
一緒にやっているメンバーは一九歳から関係が続いている者も多いので、ほとんど顔を合わせなくてもテレパシーのようなコミュニケーションがお互いに成立している。
今のミュージック・シーンはどんどんビジネスだけに集中しているが、これからの時代に対しては大きな期待を持っている。というのも、テクノロジーの発達によって、もっといろいろなことができるようになるからだ。商業的な音楽がどんなことをやっているにしても、(それとは関係なく)自分で機材を集めてつくるということがより簡単になる。そうするうちに、大きな会社もそういった場所から発達した音楽を無視できなくなってくるはずだ。
八〇年代の初めごろには、ロックをよりオーソドックスなものにしようという動きがあった。例えば、今「パンクだ!」と言うとしても、なぜあの時代のなかにおいてパンクが必要だったかという問題を無視しながら、ひとつのファッションとして変な格好をしたバンドを「パンク」と言って連れて来てもなんの意味もない。形だけのものになったら、二〇年間続いてきたロックはそこで意味がないものとなって終わる。

とても重要なライヴ

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2週間後にとても重要なライヴをやります。
私たちのグループ、ジェノームの企画するプリンスのトリビュート・ライヴです。
なぜ重要なライヴなのか?
プリンスは音楽的には様々なジャンルの音楽をやっているために、それぞれの人にとって異なるイメージを持っている場合があるのです。Ayuoにとっては詩のプリンスのコンセプトにまず大きな共通点があった。そして、その様々な音楽にも共通点を持つ面も多かった。それが前面に見えるライヴとなります。
多くの人はこれに今まであまり気が付いていなかったと思います。
今回演奏する曲には、プリンスの2年前に発表されたサイケデリックなアルバムからの曲もあれば、Ayuoのごく最近完成した詩のサイクルからの語りと音楽もあります。プリンスのファンにとっても刺激的なライヴになるでしょう。
ダンサーのナシャールは慶応Dancing Crew JADEに在籍していたころにプリンスの曲Sexy MFを20人以上のジャズ・ダンサーたちに振り付けをして、舞台で発表していた。その後、ジャズ・ダンス以外にもコンテンポラリー・ダンス、フラ・ダンス、ベリー・ダンスなどを続け、今回のライヴでは曲によって違ったジャンルのダンスでパフォーマンスをします。
プリンスの書く言葉は一見ショックを与えるような言葉を前に出して、深く読んでみるといろいろな意味が見えて来る言葉です。今回はそれにも注目をしたい。
ドラムスの立岩潤三さんは近年ではインド、中東、ルネッサンスや中世ヨーロッパ音楽での活動が目立ってきましたが、以前ではゴーストという日本の代表的なサイケデリックバンドのドラマーでもありました。ベースの守屋拓之さんとゴーストで長年活動していたため、リズム・セクションはぴったり合っている波長を出しています。キーボードの瀬尾真喜子さんは、フランスに留学し、長年フランスの印象派の作品をピアニストとして演奏してきました。今回のライヴでは、エレクトロニクスを使った曲からジャズ的なアドリブも演奏します。
是非ご期待ください。
予定曲は次の通りです:
Let’s Go Crazy (パープル・レインの一曲目を近年プリンスが演奏していたサイケデリック・ヴァージョン)
Wow (2014年のアルバムPlectrum Electrumより)
Sexy MF (1990年代のNew Power Generation の曲)
Scandalous (ティム・バートンの映画作品BATMANのエンディング・テーマ)
他にプリンスの作品ではKiss, Come, Chaos & DisorderThe Cross, Manic Monday等も演奏します。
Ayuoの作品では ”Existence – Coming and Becoming”,Leave that Place, 生き物って何?、The Warmth of Bodies等が演奏される予定です。
GENOME(ジェノーム)第 5 夜
■日時
11月24日(木)
開場 19:00 開演 19:30
■出演
Ayuo: 歌、ギター、ブズーキ、ダンス
立岩潤三: ドラム・パーカッション
瀬尾真喜子:ピアノ、キーボード
守屋拓之: ベース
Nashaal: ダンス
みず橋ことみ: コーラス
緒方ハンナ:コーラス
Asako: 詩の語り
■料金(予約制)
予約:¥ 3,300(ドリンク別)
当日:¥ 3,800(ドリンク別)
■場所
公園通りクラシックス(旧ジャアンジャアン)
〒150-0042 東京都渋谷区宇田川町19-5
東京山手教会B1F
※渋谷・公園通りの山手協会地下(入り口は駐車場の下り坂の先です)
渋谷駅より徒歩5分
■ご予約方法
ご予約は予約フォームからお願いいたします
プリンスに捧げる夜のイベント・ページも見てください
記事や音源へのリンクもあります。:
https://www.facebook.com/events/1847336758812697/

My Influences – 影響受けた作家や本のリスト

Influences
Someone asked me to write out a list of writers and thinkers that were influential to me.こないだ影響受けた作家や本のリストを書いて見ないかと人に聞かれた。これは作家や哲学者のリスト。
Some of the people listed below may not agree with each other, if they had met, but what was important to me was that they had written something that was inspirational for me.
The list is not in any particular order.

Philosophy, Psychology, Science, Cultural Anthropology:
Carl Jung, Sigmund Freud, Joseph Campbell, Arthur Schopenhauer, Alphonso Lingis, Lynn Margulis, Dorian Sagan, Timothy Leary, P.D. Ouspensky, David Abram, Robert Anton Wilson, Edward T. Hall, Jared Diamond, Slavoj Zizek, John Gray, Matt Ridley, Marie-Louise Von Franz, Barbara Hannah, M. Esther Harding, Moshe Feldenkrais, Eric Franklin, Susan Rowland, Ian Buruma, Bruno Bettelheim, Robert Graves, Novalis, Hiroko Yoshino (吉野 裕子), Antonin Artaud, Donald Richie, Colin Wilson, Julian Jaynes. Oliver Sachs, Francisco J Varela, Tyler Volk. George Carlin

Literature:
Edgar Allen Poe, Rumi (translated by Coleman Barks), Mark Twain, Oscar Wilde, Andrew Lang, Jeannette Winterson, Angela Carter, Salman Rushdie, Kurt Vonnegut, Yukio Mishima (三島由紀夫), Kobe Abe (阿部公房), Shuji Terayama (寺山修司), H.P. Lovecraft, Barbara Vine, Nikos Kazantsakis, Marguerite Duras, J.G. Ballard, Sylvia Plath, Vaslav Nijinsky,

Ancient literature:
Polynesian Mythology, European Troubadour Poetry, Carmina Burana, English traditional ballads, Tales of 1001 Nights (千夜一夜)、Zeami Motokiyo (世阿弥)

Books about Dance:
Margot Fonteyn, Rudolf Von Laban, Books on Hawaiian Hula dance and 20th century contemporary dance, Ruth St. Denis, Wendy Bounaventura
——————————
I have included written lyrics and written music below, but have not included recorded music, which includes rock, jazz, world music and world traditional music.
That would take another list。下記に作詞家と譜面を書いていた作曲家は入っているが、録音されている音楽は入っていない。ロック、ジャズ、世界の伝統音楽、やワールド・ミュージックを含むリストは別の機会に。

Song Lyrics:
Lou Reed, Joni Mitchell, Peter Hammill, Peter Gabriel, Ray Davies (The Kinks), Stephen Sondheim

19th Century Music Composers:
Ricard Wagner, Franz Liszt, Hector Berlioz

20th Century Music Composers:
Claude Debussy, Maurice Ravel, Alban Berg, Toru Takemitsu (武満徹), Stephen Sondheim

Ayuoの翻訳したジャネット・ウインターソンの『カプリの王様』

僕の翻訳したジャネット・ウインターソンの書いた絵本はアマゾンを初め、絵本を扱う本屋さんで売られている。ジャネット・ウインターソンは僕の最も尊敬する文学者の一人である。ジャネット・ウインターソンは1959年生まれの英国の女性の小説家。1980年代に本屋さんで発見した以来、ウインターソンの書いた本は全て読んでいる。
この絵本は小学生以前の子供に読み上げるのに向いている。何度かそういう機会には、この本の英語を見ながら、その場で直訳して読み上げていた。その内、小学館にこの本の話しを持って行ったら出版してくれるのではないかと思って、自分の読み上げていた文書を書いて見た。そこから、僕の日本語を直して出版されたのが、この絵本。ジャネット・ウインターソンは、他にも絵本や小学生向けの小説等を出版しているが、彼女の小説がまず素晴らしい。現在生きている作家の中で最も大きな影響を受けた一人だ。
ジャネット・ウインターソンの文章にはカール・ユングの影響も入っている様に見えるが、他にも現代科学からの考え方から文化人類学者の古代人類の研究等、様々な影響が彼女の文章に見える。J.L.ボルヘス、ガブリエル ガルシア マルケス、イタロ カルヴィーノ、サルマン・ラシュディ、アンジェラ・カーター、等様々な20世紀の様々な作家と比べられることもあるが、ウインターソンは独自に芸術について深い考え方を持っている。それに基づいて、下記の文書を書いて見た。
(日本語がまだ直っていないところがありましたら、ごめんさい。また、下記の文書を見ると難しそうに見えるかもしれませんが、絵本は小学生以前の子供が理解出来るものですよ。)

————-

『芸術は複雑な感情を達成する。
複雑な感情は、よく人生に中の大きな出来事の後に感じる事が多い。
男性か女性になった時(成人する時)、恋に落ちる時、人が生まれる時、人が死ぬ時。
そして、それぞれに強くタブーとされる面がある。
複雑な感情は禁じられているものを軸にして回る。』- ジャネット・ウインターソン
(1959年生まれのイギリスの作家)

僕はジャネット・ウインターソンの作品を20代の頃から読み始め、最も僕が影響を受けた人の内の一人となったが、神話学者ジョーゼフ・キャンベルからも、僕は、大きな影響を受けていた。

神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、世界の様々な神話、宗教、儀式、芸術を古代から研究して、それらについてたくさんの本を書いた。その独特な解釈と分析の仕方は多くの人々に影響を与えた。こうした本は、世界の文化の様々な違いと共通点の理解の仕方を人々に教えた。

生まれる時、
成人になる時、
結婚をする時、
亡くなる時、

には世界中に人生の重要な儀式がある。
そうした世界中の儀式についての考え方と違いについても、ジョーゼフ・キャンベルは書いて来た。

現在の世界の文化、そして古代の文化からのいろいろな考え方や残っている文章を調べて行くと、そこの中での自分の考え方というのが出来てくる。
それは自分の育った地域や家族や国や民族の伝統にあったものとは別に、一人の人間として客観的に感じている世界の見方が出来てくる事だと思う。

アート(芸術)は常に、こうした内容を多く語って来たと僕は思う。

この世に生まれて、生きていくというのはどういうことか?
男性性や女性性 とは何か?
恋に落ちるというのはどういうことか?
人が亡くなるというのは、どういうことなのか?

アート、宗教、科学はこうした事に答えを出してくれる。
そして、言葉にならないような気持ちも表してくれる。

私たちがアート(芸術)でやっている事は、こうした問題を、アートを通して理解しようとしている事だろう。
役目は常に宗教と同じであり、科学と似ている。
ただし、科学者はそれを証明しないと成り立たない。
芸術は感覚的に理解が出来る。
しかし、科学に対して芸術家はあこがれを持っている。
科学者が芸術家にあこがれを持つのと同じように。

これらは僕が思っている事。
——————-

ジャネット・ウインターソンは次のように書いている。

芸術は現実逃避でも娯楽でもない。もちろんこういった物はたくさん存在するが、本物の本、本物の絵画、本物の音楽、本物の演劇はそうではない。

芸術は科学や宗教と同じく構成されているもの。世界と同じように構成されている。私とあなたとおなじように人工的であって、自然でもある。それがなく生きる事は出来なく、それと共に生きる事も出来ない。

詩人は科学者よりも深く人間の中に入り込んでゆく。
詩人は自分の網で困難なものを拾い上げて、現在に持って来る。
そうすることによって、読者は自分の気付かなかった深い面を認識する事が出来る。
読者は自分の中で何年もそのささやきが聞こえていた声をはっきりと聞き取る事が出来る。
時によって、その声は生まれた時からあったようにも感じたりする。
それは、場合によっては嘘かもしれない。
そうすると、読者は自分の恐れるものを確認する。
—————-

芸術はプライベートな悪夢でも、プライベートな夢でもない。
芸術は現在という渦巻きの中で過去と未来の可能性を見つける人間共通のつながりを作る。

芸術の美しさは脅迫するもの。
そして現実化出来ていない人生の、はっきりしていなかった面に慰めを与える。

(ジャネット・ウインターソンの言葉の翻訳と解釈:Ayuo)

 

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Beginnings

Beginnings (English below) – 小学5年生頃のAyuo と母の明本歌子。パーティーでデビット・ボウイややビートルズの曲を演奏していた。1960年代では、フランク・シナトラ、ジョビンとビートルズが多く家では聴こえていたと思う。小学生の頃、Ayuo自身は他にグレートフル・デッド、ドァーズ、ジェファーソン・エアプレーン、ピンク・フロイド、シド・バレット, ザ・フー等が好きだっと思う。中学生になると、キンクス、ジェネシス、ジョニ・ミッチェル、ルー・リード、ジョン・ケール、ニコ等を発見する。リンゼイ・ケンプ・カンパニーの音楽として中学生の終わり頃にラヴェルやワグナー等のクラシックも発見した。

Ayuo around the time he was in the fifth grade (11, I think) playing guitar at a party with Utako on piano. We used to play David Bowie, Beatles songs and some other things. During the 1960s, Ayuo was listening to a lot of The Doors, Grateful Dead, Jefferson Airplane, Pink Floyd, Syd Barrett, and The Who. Ayuo discovered the joys of listening to The Kinks, Genesis, Joni Mitchell, Lou reeed, John Cale, Nico while at middle school. Ayuo first heard Wagner and Ravel as background music for Lindsay Kemp’s production of “Salome” around the time he was 14.ayuo-11-years-old-playing-guitar-with-utako-on-piano