『眠れる森の美女のパヴァーヌ』(ラヴェル)と『ー親指小僧』(ラヴェル)の新しいダンスのあらすじ

『眠れる森の美女のパヴァーヌ』(ラヴェル)と『ー親指小僧』(ラヴェル)の新しいダンスのあらすじ:
王子様は深い霧の森の中でさまよってしまう。そこの森は、伝説的な眠れる森の美女がいる森だと気づく。眠っているお姫様を起こす。しかし、お姫様は、魔女の呪いから自由になったことに感謝をして、王子様を捨てて解放された女性としての自由な生活を生きていく。
この作品は、子供のピアノ連弾の曲として作曲されてから、バレエの曲として演奏されていた。Ayuoはボウイのジギー・スターダストの振付師、リンゼイ・ケンプのパフォーマンス『オスカー・ワイルドのサロメ』のエンディングに使われていた事で、初めて聴いた。2002年の映画作品『ボーダーライン』(李 相日(フラガール、悪人、等の監督)でAyuoが二つのタイプのヴァージョンを編曲した。この映画はTSUTAYAでも最近レンタルされている。
来週の木曜日のシアター・ロックグループ、ジェノームのライヴ公演の第一部でダンスと共に演奏します。
来週の第一部は:
ニュー・クラシックとネオ・トラディション(ワールド・ミュージックの伝統音楽に基づくロック)
第二部のテーマは:
前衛ロック
になりました。
曲順と情報がこちらにあります:
https://www.facebook.com/events/190532167998700/permalink/237144546670795/

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これはドビュッシーの 《6つの古代のエピグラフ》の一曲目

こちらも弦楽四重奏とのユニットで定期的にコンサートをやっていた時からの曲。自分の作曲した作品と共に、ドビュッシーやワグナーの曲を、僕がアレンジしたものもやっていた。
これはドビュッシーの 《6つの古代のエピグラフ》の一曲目。オリジナルは室内楽作品として詩人のピエール・ルイスの詩の朗読と共に演奏された曲だった。全体のタイトルは室内楽のための『ビリティスの唄』。この一曲目のオリジナルのタイトルは『夏の風の神、パンに祈るために』。後になって、この『ビリティスの唄』からのいくつかの曲を長くして、ピアノ曲の《6つの古代のエピグラフ》にした。
数日前にプロデューサーの宮田 茂樹さんのFBのページで『初めてサティを知ったのはThe Blood, Sweat and Tearsでしたけどね』と書いてあったが、僕もそうでした。ドビュッシーは富田勲、ワグナーとラヴェルはリンゼイ・ケンプ・カンパニーで最初聴いたと思う。家でクラシックがかかる事は子供時代にはなかった。文学や哲学を僕が研究するようになった時に、こうした作曲家の作品を、その文学的なルーツから研究するようになった。
こちらの演奏者は:
甲斐史子: Violin
大鹿由希: Violin
宮 野亜希子:  Viola
松本卓以: Cello
———————–
『ビリティスの唄』よりの抜粋 (ピエール・ルイス作詞)
『鳩』 より (翻訳は岸田今日子)
ずっと永いこと、わたしは美しかった
も う女ではなくなる日が来たのだ
そして 知ることになるだろう
胸張りさける想い出のかずかず
燃えさかる孤独な欲望と 手に落ちる涙 とを
もし 人生が長い一つの夢だというなら
それに逆らってどうなろう
こ腰の疲れ果てる時
体が崩れ落ちたところに 眠り込む
朝が来て まぶたを開き
わたしは髪におおわれて身震いする
一羽の鳩が窓の所に所に止まっている
今は何の月かと わたしは たずねる
彼女は答える《今は女が愛する月》
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これは晩年のビリティスの唄。
ビリティスは紀元前六世紀の初めころ、ギリシャのある一山村で生まれました。生 まれた地方はタウラスの巨大な山々が聳え立ち、深い森に蔽われ、もの悲しい幽遠な地であります。そこで、彼女は母や姉達と静かな生活 を送っていました。樹々におおわれたタウラスの山肌には、牧童たちが羊の群れを追っているのが見えました。ビリティスはよ く森の妖精と話をしていましたが、その姿はは見ることはなかったようです。
その田園生活は一つの恋によって、悲しい終わりを告げました。ビリティスはもう二度と生まれ故郷には戻りませんでした。旅に出て、最 後にはキプロス島にたどり着きました。彼女は愛されることを止めた日、書くことも止めてしまった、と自ら云っています。
『ビ リティスの唄』は、そのビリティスの生涯をを唄で語ったものです

サティのDVDについての記事「サティ・スフィクション – エリック・サティとともに歩む」がネットでも読めるようになりました

http://mikiki.tokyo.jp/articles/-/9062

こないだINTOXICATEに書いたサティのDVDについての記事「サティ・スフィクション – エリック・サティとともに歩む」がネットでも読めるようになりました。この記事を書いた時は、書きたい事が多くありすぎて、facebookだけにその続きの記事を書きました。合わせて読んで頂ければと思います。

サティとドビュッシーの不思議な関係について。 by Ayuo Takahashi
https://www.facebook.com/ayuo.takahashi/posts/432134620321548

ラヴェルとサティ、そしてドビュッシー   by Ayuo Takahashi
https://www.facebook.com/ayuo.takahashi/posts/437612756440401

よろしくお願いします

 

Rootless と Je Te Veux

この曲は過激派のテロリストになるような人の気持ちを歌っている曲。20年前に、パキスタン系英国人の作家、ラッシュディの小説『恥』を読んで、自分もニューヨーク育ったアジア系アメリカ人の気持ちを一生持ち続けるのだろうと気が付いた。
最初の音楽『Rootless』はエリック・サティの『ジムノペディ』の感じの上に作られている。最後の曲はサティの『Je Te Veux』のメロディを使って、中世音楽のリディア・モードのオスティナート・パターンの上で歌われている。原曲を知っている人にとって、人によっては違和感があるかもしれないが、この方がその言葉のメランコリックな感じが出てくる。全体として非常にソフトに響くものになっている。
最初の曲は、11月7日の映像に、クチパクの逆で、映像を見ながら、家でライブで取り直した。『Je Te Veux』は2011年のアコースティック・ライブをそのままにしている。二つの曲の間に『国を持たない人々』という朗読と町の音のテープ音源の曲が入っている。
『Rootless』の言葉を直訳的に日本語に訳すと次のようになる:
『Rootless』 by Ayuo (直訳:Ayuo)
国を持っていない人間の気持ちを
いつか理解出来るようになる日が来るだろうか!
自分以外の周りの人々はみんな、ある”民衆”の一員
自己嫌悪によって、傲慢な程度をしてしまう
タフ・ガイの外側を演じて、自分の内心を隠す
それでも、社会は壁。
差別的に見られる気持ちが君に分かるだろうか!
鏡を見ながら『私はみんなと違うのね』と言う人の気持ちを
考えた事があるか!
クラスの道化師の気持ちを君には分かるか!
みんなを笑わせるために自分自身を屈辱する
君がそういう立場になったら、どんな気持ちになるか!
誇り高い程度を見せる
それは内心の空白感を隠したいためだ
愛されたいと思っている
どこかの社会の一員にもなりたいと秘かに思っている
沈黙ほど恐ろしいものはない
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人にとっては、自分の育った場所がふるさとだ。
言語や文化は自分の育った場所から学んでいく
科学用語ではエピジェネティックスと呼ばれている。
体が先祖からつたわるもの、文化は環境から伝わるもの…
ニューヨークで育った人は一生、自分の育った時代のニューヨークの中で
一生を過ごす。
ロンドンで育ったアラブ人にとっては、自分の育った時代のロンドンがふるさと。両親が信仰していたコーランはそのままでは彼にとって分からない。両親と親戚とは口論ばかりになる。しかし、自分の育ったふるさとの人間も彼がその一員だと認めないとすると彼はどうする。そうした彼にアイデンティティーを与えてくれるのが過激派の宗教団体。
海外で育った人間がそのまま、自分の先祖のふるさとに行くとどうなるか?
『オマエは我々とは違う』と言われる。
『オマエは本物ではない』と言われる。
『オマエは日本人ではない』ー これは僕がよく聴いた言葉だ。
…..
移民が多く増える未来。
未来はこうした人々がどうするかによって決まるかもしれない。
それは新しい民族になるのか?
それとも、国を持たない人々になるのか?
未来はこうした人々がどうするかによって決まる。
アウトサイドに生きている人は、アイデンティティーは作り物だと知っている。
社会のアウトサイドに生きている人に、そのようなアイデンティティーはいらない。
(上記は抜粋されている)Words by Ayuo
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Two songs composed by Ayuo. Rootless is inspired and influenced by Erik Satie’s Gymnopedie, while Je Te Veux is an acoustic guitar song using the well known melody by Erik Satie.
Words and Lyrics to “Rootless” by Ayuo
Ayuo: Vocals, Guitar, Recitation
Takuyuki Moriya: Contrabass
Junzo Tateiwa: Percussion
Sayano Tojima: Violin
Recorded live November, 2015 and June, 2011
The sound recording for “Rootless” is taken from a live recording at home and matched to the video. Je Te Veux is entirely live.

ドビュッシーのメロディーによるI Cry In My Heart

先週は多くの方からお誕生日お祝いのメッセージを頂き、ありがとうございました。僕の生まれた時間から数時間ずれるとフランスの詩人、アルチュール・ランボーの誕生日と同じになり、友人で別の記事でランボーについて書いている人がいました。このリンクは、今度の11月7日のライブでも演奏する曲ですが、アルチュール・ランボーの書いた言葉のanswer song、 (返事の唄)として書かれたポール・ヴェルレーヌの唄にドビュッシーがメロディーを書いたものに基づいています。しかし、この曲は僕はハワイのスラック・キー・チューニングで使われている変則チューニングで弾いているもので、ドビュッシー独特のハーモニーは使っていない。メロディーしか使っていなく、それも3拍子のメロディーから4拍子に変えてしまっている。オリジナルを知っている人は気づくかもしれないが、知らない人にとってはオープン・チューニング・ギターと歌の曲に聴こえるでしょう。この曲は、2010年頃には、ドビュッシーの曲を弦楽四重奏に、僕がアレンジした曲等と一緒に演奏していた。
このヴァージョンは、2010年に柴田暦さんと立岩潤三さんのパーカッションで演奏されている。今度の11月7日の六本木 新世界でのライブではバンドとダンスを含んだヴァージョンで演奏する。ドラムスは立岩潤三さん。ベースは守屋拓之さん。ピアノは瀬尾真喜子さん。ダンスはNashaalとAyuo.
A song for acoustic guitar and vocals based on the melody to Debussy’s Il pleure dans mon coeur”
“It is raining gently in the city” – Author Rimbaud
The original words to Debussy’s song was based on Paul Verlaine’s answer to Rimbaud’s words.
The English words are translated by Ayuo
Ayuo: Acoustic open tuning guitar and vocals
Reki Shibata: Vocals
Junzo Tateiwa: percussion
Live at Thatre Iwato January 2010

ラヴェルとサティ、そしてドビュッシー by Ayuo

ラヴェルとサティ、そしてドビュッシー   by Ayuo Takahashi

これは、こないだfacebookで書いた『サティとドビュッシーの不思議な関係について』の続きでもあります。
こないだの文章の終わりの方で、次のように書いていました。
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ロバート・オーリッジによると、1908年位までは音楽技術のない音楽家、サティと作曲でローマ賞をとった作曲家ドビュッシーとの友情関係に見えていた。しかし、1910年代に作曲家のラヴェルがサティの作品を弾いて、影響を受けたと言い出すと状況は変わってしまう。
サティは次のように書く:
Erik Satie:One person who isn’t pleased is the good Claude. If he had done sooner what Ravel – who makes no secret of the influence I had on him – has done, his position would be different.I’m not angry with him about it. He’s the victim of his own social climbing.Why won’t he allow me a very small place in his shadow? I have no use for the sun. His conduct has antagonaised the ‘Ravelites’ and the ‘Satiests’, people who have been yelling at each other like polecats.
サティ:クロード(ドビュッシー)は面白くなかった。もしも、クロードが先にやってくれていたら、違っていただろう。ラヴェルは、私、サティに影響を受けたとみんなに言ってくれる。私は怒ってはいない。ドビュッシーは自分の出世に夢中だったらから、こうなってしまったのだ。どうして、かれの影としてでも、立場を与えてくれないのだろうか?私にとっては太陽のように注目される必要がない。ドビュッシーの行動はラヴェルのフォロワーやサティを注目する人達がお互いをスカンクのように怒鳴りあうような状況を作ってしまった。
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多くの友情は、その人間同士だけではなく、周りのフォロワーたちによって破壊されてしまうケースがある。ドビュッシー、サティとラヴェルの関係にも、そのような感じが見えて来る。サティ本人もドビュッシーが亡くなった後に、このように書いていた:
サティ:私のかわいそうな友よ。しかし、今生きていたら、世間やドビュッシーのフォロワー達がお互いを敵同士にさせたかもしれない。私達の長い友情は世間によって破壊されたかもしれない。
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ラヴェルは父、ジョゼフ・ラヴェルの紹介で学生時代にエリック・サティと出合った。サティは当時Cafe de la Nouvelle Athenesでピアノを弾いていて、ボヘミアンな生活をしていた。ラヴェル本人は書いている。
L’influence de Satie [était visible] dans la Ballade de la reine morte d’aimer.” (Ravel [1938]).
サティの影響はラヴェルの最も初期の歌曲『愛のために亡くなった王女のバラード』で見られる。この曲の中世ヨーロッパのモード、ドリア・モードの使い方はサティの影響だと見られている。この曲にはアメリカの作家エドガー・アラン・ポーの詩、『ベル』の影響も見られる。ポーもラヴェルの作風に大きな影響を与えた人だった。サティの影響については、他の初期の歌曲『Sainte』や『Un grand sommeil noir』でのコードのオスティナート・パターンにも感じられると言われている。

ラヴェル(1875年3月7日 – 1937年12月28日)はドビュッシー(1862年8月22日 – 1918年3月25日)やサティ(1866年5月17日 – 1925年7月1日)よりも10年位若かった。そして、ラヴェルはドビュッシーからの影響を常に認めていたが、ドビュッシーの音楽と自分の音楽の違いについても主張していた。ドビュッシーはピアノでの即興演奏がとても上手な人で、ピエール・ルイスのサロン・パーティー等でもよく即興演奏しながら歌っていた事が有名だった。そして、その頃、即興演奏をしながら思い浮かんでいて音楽を後に多くの歌曲、『ペレアスとメリザンド』、そして室内楽の作品の中にまとめて行った。ドビュッシーは、作品を書きながら、何度も書き直して行った。非常に感覚的に作る作曲家だった。しかし、こうした作品の方法をラヴェルは取らなかった。ラヴェルは、ドビュッシーの作品には形式に対して規律に欠けている場合があるとも語ってしまっている。ここに二人の作風の大きな違いがある。

“I started the reaction against him in favor of the classics because I craved more will and intellect than his music contained.”(Ravel)
ラヴェルは古典的な形式をドビュッシーよりも大切にしていると語っていた。
ドビュッシーはラヴェルについてあまり良く言っていなかった。ドビュッシーはラヴェルの音楽は人工的に感じられる部分があると語っていた。(debussy is said to have objected strongly to a “dryness” and “artificiality” in Ravel’s music. )

ドビュッシーにとっても、ラヴェルにとっても、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーは大きな影響だった。しかし、その影響の取り入れ方に違いがあった。ドビュッシーはポーの物語に基づいたオペラを何度も始めていた。唯一ある形が残っているのは未完のオペラ『アッシャー家の崩壊』。(最近ではドビュッシーの研究家で作曲家のロバート・オーリッジが完成させたヴァージョンが演奏されている。)ドビュッシーはポーの古典的な形式に対する考え方よりも、ポーの描くイメージや世界観に影響を受けていた。
ラヴェルはポーの古典的な作風に対する考え方に最も影響を受けていた。ポーが自分の詩『からす』の方法論を分析する”The Philosophy of Composition” はラヴェルに特に大きな影響を与えた。そして、そのロジカルで計算されたな方法論を自分の作風に取り入れた。

ラヴェルの研究家、デボラ・モウアーは次のようにラヴェルの研究書で書いている:
Undoubtedly, the single most important influence upon Ravel was the mid-nineteenth century American writer, Edgar Allen Poe.
Ravel was spellbound by “The Raven” and emphasized with Poe’s description of its evolutionary process as presented in “The Philosophy of Composition” in objectified and mathematical terms.
Poe’s emphasis within the process of composition on deliberate, calculated and logical planning appealed to Ravel’s measured approach to musical composition.(from Ravel edited by Deborah Mower)

ラヴェルのサティについては新しい音楽の実験をするパイオニア として見ていた。サティが亡くなった後にラヴェルは語っていた。『サティは多くの進歩的な考えを持つ人にとってのインスピレーションだった。。。彼はドビュッシーの印象派的なアプローチを先にやっていながらも、音楽界をその方向性から抜け出る為のリーダーともなっていた。。。しかし、彼自身は自分の発見から完成された芸術を作るまでに至らなかった。』最後に語っている事は、サティは音楽技術的には弱かった、と指している。(ドビュッシーとラヴェルはオーケストレーションの天才として見られている。)

しかし、ラヴェルはサティの名前が世間に知られるように、最初にサティの曲を広めた人だった。また、サティにささげている有名な曲がいくつもある。
『マ・メール・ロワ』の第4曲目『美女と野獣の対話』のスコアには次の言葉が書いてあった:To Erik Satie, grandfather of the “Entrtiens” and other pieces, with the affectionate homage of a disciple.
この曲はラヴェル自身が『第4のジムノペディ』と呼んでいた。(ロバート・オーリッジの本”Satie The Composer” より)
ところで、私個人にとってはこの作品ラヴェルの『マ・メール・ロワ』は様々な音楽の中でも最も好きな作品の一つである。
ラヴェルの歌曲、『ステファヌ・マラルメの3つの詩』(1913)の3曲目、『壷のなかから一飛びに躍り出た』もサティにささげられている。これはサティが新しい音楽の実験をするパイオニア として見ているためにささげたものだと思われている。

サティは最初ラヴェルに恩を感じていた。この文章の初めにある言葉でそれは伝わると思う。しかし、サティが1917年のコクトーが企画した『パラード』の成功によってフランスの六人組からも時代の先駆者として認められると、ラヴェルについては人間はとても好きだが、古典的で古い考えの音楽を作る人として語るようになった。ラヴェルはサティについては、サティが亡くなるまで、意見を語らなかった。

この文書の初めのサティの文書にあったように、それぞれの作曲家にフォロワーやファンが出来てしまうと、その人間同士の関係で収まりそうな問題でも、他の人達が間に入ってしまうため、より複雑になり、友情関係になれたものも破壊されてしまう可能性がある。
人の人生とその人の作品について調べていくと、いろいろと人生について学べるものがある。それが重要だと僕は思う。

サティとドビュッシーの不思議な関係について。 by Ayuo

サティとドビュッシーの不思議な関係について。 by Ayuo
Erik Satie (about Claude Debussy): As soon as I saw him for the first time, I felt drawn towards him and longed to live forever at his side. For thirty years I had the joy of seeing this wish fulfilled…We understood each other at once, for it seemed that we had always known each other. (From Satie Ecrits p.68)

サティ(ドビュッシーについて):彼を初めて見た時、彼の魅力にひかれた、彼のそばで永遠に過ごしたいと思った。30年間もの間、この望みは叶うことが出来た。私たちは一瞬でお互いの事を理解できた。それは前からお互いのことを知っているかのようだった。(サティのEcrits より 68ページ)

これは30年間の間、毎週1回から3回、ドビュッシーの家に遊びに行っていた、
作曲家エリック・サティの書いた言葉。

Erik Satie:”I witnessed his entire creative development. The String Quartet, the Chansons de Bilitis, Pelleas et Melisande were born before me; and I still cannot forget the emotion this music produced in me. ”
サティ:彼の作曲家の発展を全て体験することが出来た。弦楽四重奏、ビリティスの唄、ペレアスとメレザンド。これら作品は私の目の前で生まれた。これらの音楽が私に呼び起こした感動は忘れることがないだろう。

Debussy played Chopin to Satie, being “able to analyze and understand his music as few virtuosi can.”ドビュッシーはサティにショパンを弾きながら、彼の作品を世の中のわずかの人しか出来ないほど理解をして、分析していた。
ドビュッシーやサティの最近の研究家のロバート・オーリッジは、ドビュッシーがオペラ『ペレアスとメレザンド』ほど複雑なオーケストレーションの曲をどうやって、他の作曲家が遊びに来ながら作曲できたのだろう、と書いている。
サティが遊びに来ると、ドビュッシーが手料理を作り、音楽、芸術、世間話等しながら、チェスやバックギャモン等のゲームをした。外にもしょっちゅう魚釣りに行ったり、パーティーに行ったりしていた。周りの人は二人の関係は何だろう?、と不思議がった。

しかし、サティは作曲家としてまだ全然認められていなかった。ドビュッシーも彼を出版社や音楽のパトロンには紹介しなかった。しかし、ドビュッシーにはサティが必要だった。ロバート・オーリッジは書く『Both composers were reclusive and disliked discussing their music with others, so it is likely that their frank conversations provided a very necessary emotional outlet.』(二人とも内向的で、人と音楽を話すのが好きではなかった。お互いに対しては素直に話せるので、これが彼らにとって必要だった。)

Erik Satie:”If I didn’t have Debussy to talk about things a bit above those common men discuss, I don’t what I should do to express my poor thoughts.”

当時、二人を知っていたLouis Laloy は書き残している:
“They seemed like two brothers, placed by the events of their life in very different situations, the one rich, the other poor; the first welcoming, but proud of his superiority and ready to make it felt, the second unhappy behind a jester’s mask, paying his share of things with witticisms to divert his host, hiding his humiliation; each constantly on his guard against the other, without being able to to stop loving him tenderly. ”

彼らの周りにいた人は、サティはドビュッシーの寄生虫と言ったり、ドビュッシーの道化師と呼ばれたりしていた。サティの作品はシンプルで、作曲を勉強する人はかならず書くフーガ等もサティには出来なかった。これはサティにとってコンプレックスになり、40代の時に作曲の対位法を習いに行った。しかし、それでも、二人はお互いを愛している兄弟のように見えていた、とLouis Laloy は書いている。
サティは、自分の本当の姿をあまり見せないようにしていた。”変わっている人”を演技するようになった人だった。自分の家には誰も招待せず、外に出かける前には自分の決めた姿をしっかりと作った。殆どの人生、彼は貧しかった。そして、彼にとって人生はつらかった。彼は自分の作ったキャラクターを演じるようになっていた。サティは書いている:『人生はいよいよ耐え難くなり、自分の土地に引篭もって、象牙の塔の中で過ごす決心をしました。徐々に人嫌いになり、心気症を増殖させていきました。私は最も憂うつな人間でした。全て音楽のせいです。悪い事の方が多かった。素晴らしい友人達と仲違いばかりでした。』

ドビュッシーの妻の娘、Dolly Helne Bardacは書く:
Erik Satie came to lunch regularly. I always awaited his coming with impatience, so unexpectedly comical was his way of expressing himself and his repartee in conversation.
サティはレギュラーにランチに来ていた。彼はとてもコミカルに表現出来る人なので、いつも彼が来るのが楽しみだった。
サティはパリから少し離れた屋根裏の部屋に住んでいた。そして、ドビュッシーは素晴らしい料理人だった。

Erik Satie:Eggs and lamb cutlets were the main items, but what eggs and cutlets!…I still lick my lips just thinking about them.
Debussy – who prepared these eggs and cutlets himself – knew the secret of these preparations. (Satie, Ecrits p58)
サティ:卵と子羊のカツレツがメインだった。しかし、何ておいしい卵と子羊のカツレツだったのだろうか?いまだに、その味を思い出すだけで唇をなめたくなる。ドビュッシーはどうやって美味しく作れるかの秘密が分かっていた。。(サティのEcrits より58ページ)

ロバート・オーリッジによると、1908年位までは音楽技術のない音楽家、サティと作曲のローマ賞をとった作曲家、ドビュッシーとの関係に見えていた。しかし、1910年代に作曲家のラヴェルがサティの作品を弾いて、影響を受けたと言い出すと状況は変わってしまう。

サティは次のように書く:
Erik Satie:One person who isn’t pleased is the good Claude. If he had done sooner what Ravel – who makes no secret of the influence I had on him – has done, his position would be different.

サティ:クロードは面白くなかった。もしも、クロードが先にやってくれていたら、違っていただろう。ラヴェルは、私、サティに影響を受けたとみんなに言ってくれる。

ドビュッシーはなぜサティが成功しているのかが理解しづらかった。そして、1917年のコクトーが企画した『パラード』の成功によってフランスの六人組からも時代の先駆者として認められる頃には、二人は会わなくなった。

サティはドビュッシーが亡くなった後に書いた:
Erik Satie:My poor friend! And to think that if he were still alive, we would today be the worst of enemies. Life – and the ‘Debussyists’ – would have taken it upon themselves to separate us, and to sow their seeds of hate between us. Our long friendship would have been ruined for evermore.
サティ:私のかわいそうな友よ。しかし、今生きていたら、世間やドビュッシーのフォロワー達がお互いを敵同士にさせたかもしれない。私達の長い友情は世間によって破壊されたかもしれない。
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