Ayuoのクラリネットとピアノの作品の日本初演

From Thomas Piercy’s Facebook page:

“TOKYO TO NEW YORK” “東京 と ニューヨーク”
http://www.tonadaproductions.com/tokyo-to-new-york-2015-tok…

1月12日の東京コンサートでは、ニューヨーク在住と東京在住の以下の作曲家による作品も初演される予定です:
Ayuo
坂野嘉彦 Yoshihiko
大胡恵 Kei Daigo
合屋正虎 Masatora Goya
平山 智 Tomo Hirayama
伊藤美由紀 Miyuki Ito
橘川琢 Migaku Kitsukawa
David Loeb
松本祐一 Yuichi Matsumoto
長生 淳 Jun Nagao
大江千里 Senri Oe
大羽田 大輔 Daisuke Ohata
Fernando Otero
Ned Rorem
清水チャートリー Chatori Shimizu
下山一二三 Hifumi Shimoyama
鈴木治行 Haruyuki Suzuki
壺井 一歩 Ippo Tsuboi
宇澤とも子 Tomoko Uzawa
薮田翔一 Shoichi Yabuta
吉仲 淳 Atsushi Yoshinaka

2014年11月6日のショーのプログラム

ショーのプログラムが決定いたしました。
フランツ・リスト、ドビュッシー、デヴィッド・ボウイからガーシウィン、ジェネシスまで。生々流転の旅を、ピアノ、バイオリン、ブズーキ(ギリシャのギター)、歌、そしてダンスでお送りいたします。

2014年11月6日
「TURN, RE-TURN R-EVOLVE くるりとまわって」プログラム
November 6, 2014 program

1.Ayuo – Freedom from belonging to a nation (from outside society) (Ayuo + Makiko )
Ayuo -『民族国家から自由になる人々』

2. George Gershwin – Swanee ( Ayuo + Makiko )
ジョージ・ガーシュウィン ースワニー

3.David Bowie – Life on Mars? ( Ayuo + Makiko )
デビット・ボウイ ー 『ライフ・オン・マーズ?』

4. Cole Porter – Night and Day ( All )
コール・ポーター ー 『夜も昼も』

5. Ayuo (based on a melody by Claude Debussy) – I Cry in My Heart ( All)
Ayuo (ドビュッシーのメロディーに基づく)ー 『心の中で泣く』

6. Claude Debussy (arranged by Ayuo) – Let’s love and sleep ( Ayuo + Makiko )
ドビュッシー 『愛し合い、そして眠ろう』

7. George Gershwin – How Long Has This been Going On?( Ayuo + Makiko )
ジョージ・ガーシュウィン ー 『ファニー・フェイス (パリの恋人)』より

ハワイ神話『ペレ』より ー ロヒアウとヒィアカの出会い。
8. Ayuo – Eyes and Movements. ( All )

9. Ayuo – Night in the Gallery ( All) ー誰もいない美術館

————————–休憩  intermission————-

1. Ayuo – Meeting Salome, Elijah and Lilith in Jung’ dream
Ayuo – ユングの夢で出会うサロメ、エリアとリリス( Ayuo:Violin, Nashaal)

2. Ayuo – He Needs Something to Believe In ( Ayuo, Vocals: Bouzouki, Nashaal)

3 Erik Satie – Je Te Veux (All)
エリック・サティ ー 『あなたがほしい 』

4. Genesis – The Lamia (All)
ジェネシス ー ラミア
ラミアはラテン語でリリス。アダムの最初の妻であり、蛇として現れたり人生のガイドとして現れる。

5. Ayuo – Dreaming Away ( Ayuo+Makiko)
Ayuo – 『夢うつつ』

6. Franz Liszt – “Liebestraum
リスト「愛の夢」 (All)

お楽しみに!

Peter Gabriel and Angela Carter

Peter Gabriel and Angela Carter
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Quotation from Angela Carter (abridged from p123-127 of “The Sadeian Woman”
(日本語の短い感想文が下記に書いてあります。)
Words to Peter Gabriel’s song at the very bottom.

Consider the womb, the extensible realm sired in the penetrable flesh; most potent matrix of all mysteries. The great, good place; domain of futurity in which the embryo forms itself from the flesh and blood of its mother; the unguessable reaches of the sea are a symbol of it, and so are caves, those dark, sequestered places where initiation and revelation take place. Men long for it and fear it; the womb, that comfortably elastic organ, is a fleshly link between past and future, the physical location of an everlasting present tense that can usefully serve as a symbol of eternity, a concept that has always presented some difficulties in visualization. The hypothetical dream-time of the fetus seems to be the best we can do.
For men, to fuck is to have some arcane commerce with this place of ultimate privilege, where, during his lengthy but unremembered stay, he was nourished, protected, lulled to sleep by the beating of his mother’s heart and not expected to do a stroke of work, a repose, of course, not unlike that of a corpse, except that a fetus’ future lies before it. And the curious resemblance between the womb and the grave lies at the roots of all human ambivalence towards both the womb and its bearer; we mediate our experience through imagination and dream but sometimes the dream gets in the way of the experience, and obscures it completely – the womb is the First and the Last Place, earth, the greatest mother of them all, from whom we come, to whom we go.
The womb is the earth and also the grave of being; it is the warm, moist, dark, inward, secret, forbidden, fleshly core of the unknowable labyrinth of our experience. Curiously, it is the same for both men and women, because the fetus is either male or female, though sometimes both; but only men are supposed to feel a holy dread before its hairy portals. Only men are privileged to return, even if only partially and intermittently, to this place of fleshly extinction; and that is why they have a better grasp of eternity and abstract concepts than we do.
They want it for themselves, of course. But not, of course, a real one, with all the mess and inconvenience that goes with it.The womb is an imaginative locale and has an imaginative location far away from my belly, beyond my flesh, beyond my house, beyond this city, this society, this economic structure – it lies in an area of psychic meta-physiology…This is the most sacred of all places. Women are sacred because they possess it.
The truth of the womb is that it is an organ like any other organ, more useful than the appendix, less useful than the colon..
To deny the bankrupt enchantments of the womb is to pare a good deal of the fraudulent magic from the idea of women, to reveal us as we are, simple creatures of flesh and blood whose expectations deviate from biological necessity to sufficiently to force us to abandon, perhaps regretfully, perhaps with relief, the deluded priestesshood of a holy reproductive function. This mystification extends to the biological iconography of women.
The goddess is dead.
And, with the imaginary construct of the goddess, dies the notion of eternity, whose place on this earth was her womb. If the goddess is dead, there is nowhere for eternity to hide. The last resort of homecoming is denied us. We are confronted with mortality, as if for the first time.
There is no way out of time. We must learn to live in this world, to take it with sufficient seriousness, because it is the only world that we will ever know.

– Angela Carter (abridged from p123-127 of “The Sadeian Woman”

とても詩的で美しいアンジェラ・カーターの文章。
翻訳されていないし、翻訳する時間もない.
その文章の美しさを、別の言葉で伝えるのも難しい。
非常に簡単に、ここや他の文章でもカーターは語っている意味は:
天国は存在しない。死後の世界として人が想像するのは母の子宮にいた時の状態 (働かなく生きている状態)へのノスタルジーだろう。”永遠”というイメー ジも子宮にいた時の感覚を思い出す事から来ている。私たちが”私たち”として生きていられるのは、今現在いるこの世の中だけだと気が付いた時に初めて人は 本当に真面目にがんばって生きていく事が出来る。これしかないと分かると人はホッとする。
人はこの状態に戻りたいと思って、それにまつわる神話を作っていた。男性は子宮を自分で持っていない為に自分でも欲しいと思っている。男性はfuckとい う行動で一瞬だけ特別な場所に近くなった気になる。そして、人はその周りに宗教を作り、神秘思想を作ってしまう。秘密のされているものというのは、それだ けで大きなパワーを持つ。神聖で近寄れないものは、同時に汚れたものとして見られる。聖母マリアを讃える運動がカソリック協会で始まると、魔女狩りも同時 に始まる。人間の心理がそうさせてしまう。(ケガレが神聖なものとつながるのは西洋だけではないだろう。)

これは、しかし、物質主義を語っているのとは違う。アンジェラ・カーターはたくさんの世界のおとぎ話や神話を集めた素晴らしい本をいくつも編集して出版し ている人で、カーターほど世界神話に詳しい人は少ない。また、彼女が亡くなった時には、彼女の遺言にある詩人の書いた特定の祈りの言葉を唱えるように書い ていた。
祈りや心の中からの叫び声は人に伝わる。
私たち3次元の生き物には見えない次元に包まれているというのは現代の宇宙科学が研究している事だ。
人も他の生命と同じくゲノムから出来ている。新しい生命の遺伝情報には、最初の生命、そしてバクテリアから爬虫類、哺乳類への道を全てたどってから生まれ る。 これはそれぞれの人も”個人”ではなく、地球の歴史と完全に繋がっている事が見えてくる。”私”とか”僕”とよばれている存在も、いくつもの遺伝情 報から出来ているので、個人ではなく、総合された生き物として見れる。

しかし、DNAやゲノムの事ほど、勘違いされているものは少ない。
マット・リドリー、中村桂子やリン・マーギュリスの生命科学の本を読んで欲しい。
そこで書かれている事は一般的な知識をひっくり返す事である気がする。
政治思想よりもよっぽど革命的だ。
最近のナショナリズや人種主義の世界的な盛り上がりは、科学の一般的な情報の少なさからも来ていると思う。

日本での一般的なDNAの考え方は軍国主義を作った考え方から変わっていない。
いわゆるRacisim(人種主義)である。
そのような考え方が深く根強く”伝統”としてあるような気がする。
日本のサヨクも殆どが反米主義が中心なので、同じくRacisim(人種主義)の考え方を平気で語っている。
DNAやゲノムの知識があまり伝わっていないのは、”難しい”という偏見、そして生命の誕生や性的な事について真面目に語る違和感だったりする。
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次のPeter Gabriel の曲の後半(2:08から先)は上記のAngela Carterの文章とのつながりがあるように思ってしまう。
僕はAngela Carterの文章を読んだ時、この曲が聴こえてきた。

Out of woman come the man
Spend the rest of his life gettin back where he can
As a bow, so a dove
As below, so above

From the black hole
Come the tadpole
With the dark soul
In coal she burn, she burn

As I drove into the sun
Didn’t dare look where I had begun
Lost among echoes of things not there
Watching the sound forming shapes in the air

From the white star
Came the bright scar
Our amoeba
My little liebe schoen

– From Humdrum by Peter Gabriel
http://www.youtube.com/watch?v=PaLJQD_2M6c

 

November 4, 2013 -四谷三丁目でライブのゲスト・パフォーマンス

November 4, 2013 - yotsuya sanchome 四谷三丁目でライブのゲスト・パフォーマンス

一週間前に初めて話しをして、土曜日に初めて会った大西穣 さんのライヴに呼ばれました。一週間後の月曜日に初めて一緒に演奏します。これからも一緒に演奏出来るかもしれない。四谷三丁目から歩いてすぐの場所も面 白そうです。もしも、お時間が空いていらしたら、遊びに来てください。久しぶりにギリシャの3コースのブズーキも弾きます。この楽器は日本の三味線とも似 ていて、戦後のギリシャのブズーキとは違う、独特な楽器です。ユーラシアン・タンゴ5番も久しぶりに演奏します。他には、ガーシュインの『How Long Has This Been Going On』や『Embraceable You』コール・ポーターの『Night and Day』やカーンの『The Way You Look Tonight』。

Monday, November 4, 2013

    • 6:00pm
      大西穣 ページより:
      11.4(祝・月)の cafereggioですが、ゲストにmusician’s musicianであるAyuoさんをお迎えします。世界各地の民族音楽、伝統音楽に精通しその上で新しい表現をなさっていて、ピーター・ハミ ル、フェアポート・コンベンションとの共演などで国際的に活躍してい るアーティストです。僕自身も先日地球屋でのライブを見に行き、非常に感銘を受けました。絶対素晴らしい夜になると思うので、是非4日の夜は四谷茶会記へ!https://www.facebook.com/events/164695443729801/?fref=ts
  • 四谷茶会記
  • 四谷の茶会記で行われているアコースティック音楽のイベント、
    cafereggio常連のhosenobuさんは現代的なセンスに優れ、本場のサンバのリズム感に満ちたブラジリアンを聴かせます。いつもどこかへ連れてってくれるパフォーマンスをしてくれます。そして今回初参加となる森川拓哉さん。ジャズのみならず、フラメンコやラテン音楽など民族音楽に精通してます茶会記は誰とでも気軽に話しかけられるところです。交流の場として祝日の夜に、ぜひぜひぜひ!<Live Act>hosenobu 大西穣 Ayuo 森川拓哉<Sound Designer> Ohashi Takara<Time> 開演18時(予定)<Fee> 1500yen (1drink付き)軽食のサービスもあります。四谷茶会記のホームページ。
    道順も書いてあります。
    http://gekkasha.modalbeats.com/

Ayuo/Ohta Hiromi (太田裕美)のCD”Red Moon”の曲

Ayuo/Ohta Hiromi (太田裕美)のCD”Red Moon”の曲を誰かがyoutubeでアップロードしてあった。2001年に初めてmacのラップトップを買って、それにProToolsの録音ソフトを入れて自分で録音を始めて見た。この曲も、それを使って作った。
この曲は一度もライブで演奏した事がない。言葉を日本語で書いて、その上にメロディーを一枚の紙に書いただけで、それ以外のパートはProToolsでエレクトリック・ギターを自分で録音しながら作っていった。コードのストラミングもスライド・ギターもベースのような音も、同じ一つのギターにエフェクトやプラグ・インを使って録音した。その後に、ナイロン弦のギターを重ねて、Matoさんがタブラを叩いて、太田裕美さんが歌った。友人のエンジニア前田もとひこ がミックスした。

言葉は日本語で自分で作詞したが、その使い方や意味にはむしろ英語的な影のメタフォアが意識されている。歌っている太田裕美さんには、その意味を伝えていなく、僕にとってはそれを伝えなくても良いと思っていた。この曲はニューヨークのTZADIKレーベルから発売されていて、ヨーロッパに住む知らない人がyoutubeに、この曲をアップしたページの下のコメントの部分に、なぜこの曲を書いたかを英語で書いた。
時間が立って、今になって聴くと、良い曲だったかも、と自分でも思った。

『Inventing Japan』

Ian Burumaの文章にはユーモアがたっぷりある。おそらく、会った、みんなを笑わせながら、深い政治の話しを出来る人だ。『Inventing Japan』という本や『Occidentalism』という本も面白い。両方の本に、どうっやって、”日本”というそれまで存在していなかった民族国家 をドイツとイギリスをモデルにして、神道、仏教、中国から影響を受けた様々な文化や文学を引用しながら、”神秘的”な偽文化に作り直したが書かれている。 これが面白い。明治時代からの”日本文化”は、ドイツでは、中世ヨーロッパ文化を、ファンタジーに作り直して、それまでなかったドイツという国が作られた。それををモデルにして明治時代の政治家達は、”日本”の 過去の文化をファンタジーにした。
音楽の世界では、”日本民謡”というものを作るために、この島にある様々な唄を江戸風の旋律に直して、ラジオから流し始めたと小泉文夫の本で読んだと思 う。(今は手元にないが。)神道にしても、西洋のキリスト教会をいくつかモデルにして、新しい宗教に作り直した事がBurumaの本で書かれている。靖国 神社は、国家宗教を作る為に作られた。過去にあったものではなかった。古代の神道はべつの物だった。歴史を書き直して、それに洗脳した、新しい民族国家を 作るのは大きな作業だった。新聞、ラジオ、等あらゆるメディアで”日本”という国があり、そこには天皇陛下がいて、それは過去から歴史があると洗脳して 行った。
日本に住んでいると、安全で妙な安心感があるのは、そのファンタジーがいまだに続いているからだと思う。

ほとんどの人は、なんらかの洗脳を受けている。僕自身は小学生の低学年では、毎日 「星条旗 (The Star-Spangled Banner スタースパングルドバナー)」をクラスで歌い、アメリカの旗の前で、右手をハートにおいて、アメリカに一生を捧げると大声で語っていた。今でも、パブロフ の犬のように、アメリカの国家が聴こえてくると自分の潜在意識が動いてしまうのが分かる。中学年になって、先生がクラスで毛沢東の言葉を覚えさせようとし たり、アメリカの教科書は間違っていると教えていても、その心の奥には、アメリカのデモクラシーは本来こうあるべきだった、という考えがみんなの心の奥に あった。”アメリカ”というのは、イデオロギーであった。民族や宗教でまとめている場所ではなかった。”ウッドストック”の夢も、映画『イージー・ライ ダー』の理想も、そのイデオロギーがあったから出来たものだった。しかし、ソ連が崩れた、10数年後にはそのイデオロギーの夢も皮肉に崩れてきた。
僕は思うが、人はアイデンティティーがないことを恐れるようになっている。過去の歴史では、カトリックかプロテスタントで、大勢の人が死ぬ戦争が起こされ ていた。民族国家が出来ると、”xx人”であるという事がその代わりに戦争を起こせる理由になる。本当は、石油が足りなかったり、資源が足りないという事 が政治家が戦争を作る理由だが、それでは人々は動かない。
しかし、誰もカトリックとして生まれてこない。後で覚えるものだ。同じく、誰も日本人としても、アメリカ人としても生まれてこない。そう信じている者だけがそう思っている。http://www.amazon.co.jp/Inventing-Japan-Ian-Buruma/dp/0753819759/ref=sr_1_2?s=english-books&ie=UTF8&qid=1377174786&sr=1-2&keywords=inventing+japan

英語詞と日本語詞の違い

最近、言葉と音楽について考えていた。80年代に、僕がまだMIDIのアーチストだった頃に、吉田美奈子さんと英語詞と 日本語詞の違いについて話した事があった。吉田美奈子さんは、英語詞では、ダブル・ミーニングやアイロニーが使えて、言葉に一つの意味だけではなく、はっきりと物事を言っていそうなに見えても、二重にも三重にも意味を持たせる事が出来るが、日本語詞でははっきりと物事を言っていなさそうに見えながら、実は一つのはっきりとした意味があると言っていた。これで、僕にとって、あるミステリーが分かった気になった。
英語詞を日本語に直訳すると押し付けがましい感じがするため、その元の曲のイメージさえも変わってしまう。英語詞とは響きでもある。聴くものとして作られている事が多い。シェークスピアの劇が英語で唱えるだけで音楽に聴こえるのは、響きやリズムを考えて作ってあるからだ。ロックでもラップでもそうだ。
また、大人の思考は言葉を使って考えている。言葉を習う子供を見ていると、言葉を覚えるための基礎は持っていたり、意思を表明するためのコミューニケーション機能は持っているが、実際に何語を話すようになるかは育った国によるものだ。これは様々な言語学者や生命科学者がすでに、書いていることだ。15歳頃までアメリカで過ごしたものは、その育った環境の言葉を話す。(英語が殆どだが、プエルト・リカンのコミュニティーや中華街の人々は、その先祖の言葉を話している場合もある。)
僕の場合は、英語でしか思考が動かない。音楽を作る時でも、まず英語で言葉を書く。そして、それに音を付けて行く。歌の曲だけではなく、ピアノ曲であっても、弦楽四重奏曲であっても、CMのインストの曲であっても、映画の為のインストの曲でもそうだ。英語の言葉を使ってイメージを描く。直接メロディーや音楽が頭で響いた覚えがない。言葉で考えないと、音も浮かばない。これは歌詞を考えるという事とも違う。意味を考える事とも違う場合がある。リズムかもしれない。イメージかもしれない。いくつかのそういった要素を同時に言葉に持たせているのかもしれない。
しかし、詩の朗読のように音楽を考え、それを演奏家に渡すと、それが伝わらなかったりする。自分が演奏する時は、テンポのその時の気分で遅くしたり、ダイナミックスを上げたり出来るが、その指定を全て譜面に書いてしまうと、結果的に想像しているものとは別の響きになる事もよくある。それはその言葉でイメージしていた事が見えて来ない場合だ。
90年の頃に、日本のポップスの曲を頼まれた時も、最初英語で言葉を書いてから、その周りに曲が浮かんできた。日本のポップスでは、メロディーが先に作られ、それに合わせて作詞家が付ける事が多いので、僕の詩は最終的には使われていないが、言葉を書いていなかったら、音も作れなかった。

80年代の頃に、『日本人の方が英語のロックを理解する事が出来る。何故ならば、内容の意味が分からないから音がより分かるのだ』と僕に語ったミュージシャンがいた。これは歌詞が邪魔だとという意見ともつながる。しかし、日本語では一つの意味しか考えられない事が多いとなれば、一つの詩で様々な意味のメタフォアが作るのが大変になる。そして、歌詞が一つの意味を押し付けているように見えるようになる。
しかし、意味がない行動は、はたしてあるのだろうか?動物は必然性のない事をしない。スティーヴン・ピンカーのような言語学者が動物の言葉(音)の使い方についても研究するのは、その意味を探っているからだ。例えば『ゴロゴロドー、ゴロゴドゴド』等のヒキガエルの響きを聴いたとしても、言語学者にとっては、その意味を研究する。
中国と日本語が日中国交正常化した時に、中国の首相、周恩来は田中角栄首相に、『漢字を日本に伝えてしまってすみません』と言った話を読んだ事がある。漢字を読む事によって、同じ響きで別の意味を言葉で持つ事も難しくなったりする。人はみんな意味を重視してしまう。だから、言葉がよけい重い物になってしまう。これが日本語の不幸だと僕には思えてしまう。韓国がハングル文字を中心にしたように、ひらがなやカタカナで何とか出来なかったものか?今からでも遅いのか?