作曲家のクルト・ワイルは”国を持っていない人”になってしまった人だった

作曲家のクルト・ワイルは”国を持っていない人”になってしまった人だった。彼の妻、ドイツ人の歌手のロッテ・レンヤによると、彼はアメリカに渡って落ち着くと家でも全くドイツ語を話さなくなってしまった。そして、ドイツ人の作曲家として、彼について書かれると、自分から文句の手紙を書くのだった。1947年にアメリカのライフ・マガジンに次のように書いていた『私はドイツに生まれましたが、私はドイツの作曲家ではありません。ドイツも私をドイツ人の作曲家だと思っていないから、ドイツを去った。私はアメリカの市民であり、私はもはや12年もアメリカのステージのために作曲をしている。そのように、修正するようにお願いします。』ロッテ・レンヤによると、彼はドイツ人の昔の知り合いとは縁を切ってしまった。裏切られた、という気持ちが強くあった。彼の死ぬ前の最後の言葉も英語だった。
ドイツは19世紀ではヨーロッパの中でユダヤ人が最も普通に暮らせる場所だと言われていた。ポーランドや東ヨーロッパではゲットーに住まないといけない場所がまだ多かった。ベルリンではたくさんのユダヤ人が他の人と同じように仕事が出来た。宗教を捨てて、キリスト教になる人もいれば、共産主義に信じる人もいた。ドイツではドイツ人としてそのままやって行けるように見えていた。だが、歴史を見ると、移民や社会のアウトサイダーや”よそ者”がいられるのは景気が良い時で、経済に問題が来るとまず”よそ者”のせいになる。唐時代の中国も国際都市だったが、景気が落ちたら、イスラム教等の人達の大きな虐殺があったと歴史の本が伝えてる。
1930年代にクルト・ワイルは国を失った。そのショックで、人間についての考え方、そのものが変わってしまった。アメリカの作曲家ヴァージル・トムソンは書いていた”Weil’s working associations with Bertolt Brecht was to be buried”
そして、ロッテ・レンヤは言う”Weil didn’t want to have anything to do with refugees (from Germany). He never saw any of them again. Never! Kurt never wanted to go back.”
彼はユダヤの古典的なモードで曲を書いたり、アメリカのユダヤ人の作詞家のアイラ・ガ-シュイン(ジョージ・ガーシュインの兄)と組んでヒットになったミュージカルを作曲した。『イントゥ・ザ・ウッズ』の作詞作曲家スティーブン・ソンドハイムはクルト・ワイルのアメリカ時代の作品の方が好きだと語っている。ソンドハイムはブレヒトとの共作『マハゴニー』の英語版を作るのを断った。アイラ・ガ-シュインとの共作『Lady in the Dark』には素晴らしい歌がたくさんある。”My Ship”等スタンダード・ソングになった曲も多い。私にとってはクルト・ワイルがアメリカで作った曲には、このように人間に対して信じていたものがひっくり返った経験を持つ人のものにも見えて来る。
ワイルはブレヒトと出会う前から、自分が目指す新しい音楽の考えを出版していた。”The rhythm of our time is jazz. In it the slow but sure Americanization of all our physical life finds its most notable manifestation. …And a glance into any of the dance halls of any continent shows that jazz is as precise the external expression of our times as was the waltz of the nineteenth century. (1926年, ブレヒトと出会う1年前の記事。)
ブレヒトの詩は’技術的’に優れているものも書いているが、見えて来る人間性があまり好きではない。ブレヒトはワイルとの共同作業がうまくいかないと気がつと、ワイルの音楽の方法を全部自分が指示したと文章で書いたり、ワイルの音楽的な考えとあきらかに違反するものを『マハゴニーのノーツ』として出版したりして、ワイルを困らせた。ブレヒトが作り上げたインチキ・プロレタリア・スタイルの格好にも、その人間の嫌な感じが伝わって来る。ワイルの妻、レンヤは、ブレヒトは自分をかっこいいプロレタリアに見せるためにお金をたくさん使っていた、と言っている。。ワイルはブレヒトに忠告していた”I’m not interested in composing Karl Marx. I like to write music.” また、ブレヒトは彼の演劇論は、その時代では革新的だったかもしれないが、はたしてそれで感動出来るものが今作れるだろうか?スティーブン・ソンドハイムの『イントゥ・ザ・ウッズ』には心理学者カール・ユングの影響がキャラクターの描き方に見えてくる。これが私にとって最も理想的なミュージカルだ。
ワイルはアメリカの市民になり、ブレヒトは戦後東ドイツに帰った。ワイルが亡くなった1950年からスターリンはソ連と東ヨーロッパで”Rootless”な人達を批判して、強制収容所に送ったり、射殺する運動が始まった。”Rootless”というのは「国を持たない人達」で、社会主義国ではユダヤ人、ロマ(ジプシー)等、”民衆”としての共同体からはみ出ているものは虐殺して行く運動が始まろうとしていた。しかし、1953年に突然怪しい状況でスターリンは亡くなった。スターリンは特別に狂っている人ではなかった。ロシアに 旅行した時、何人もスターリンの時代こそが最も良かったと英語で私に語る人と出会った。49%の人口はそう思っていると読んだ事もある。スターリンはみんなが望んでいる事をしていたと語る人達。数冊、スターリンについての本を読んだ事あるが、たしかに民衆が本当の社会主義の革命を起こすと、必ずスターリンの歩んだ道になるしかないだろう。ある元共産党員はポル・ポットは何故カンボジアの革命に失敗をしたかというと、たった人口の3分の1しか殺していないからだと言っていた。人口の3分の1の死者では全くたりない。恐怖の状態で人を動かすには、たくさんの無実の人達を公開死刑にしてしまわないと本当の恐怖の政治国家にはなれない。
クルト・ワイルの伝記によると、ワイルは初期の時代ではシェーンベルグの『月に憑かれたピエロ』に特に影響を受けて、この作品については2つの文章を発表していた。また、ベルグの『ヴォツェック』にも影響を受けていた。ベルグはよく毎日午後にジャズをラジオで聴いていたと言われている。そして、ワイルとの共通点は、それを自分の音楽に独特なスタイルで取り入れる事が出来た事だろう。アメリカに渡った後のワイルとドイツにいた頃のワイルのスタイルの違いについていろいろと書かれているが、彼の伝記を見ると彼の人生経験そのものがどちらの時代の音楽からも溢れ出ている。