映画監督ラース・フォン・トリアーについて

映画監督のラース・フォン・トリアー(ビョーク出演の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』やニコール・キッドマン出演の『ドッグスヴィル』)はほぼ僕と同じ世代である。彼の映画を見ると同じように感じるところがたくさんある。
彼の母親はコミュニストだった。母親は芸術家の子供を作りたいと思い、その考えで、デンマークで有名な作曲家、Peter Emilius Hartmannの子孫と子作りの為に不倫をした。まるで、フランケンシュタインが怪物を作ったように遺伝子から決めて作った。そして、1960年代の左翼がし始めていたような”自由”の教育を始めた。考え方を押し付けずに”自由”に育てれば、自然に母親の思うような芸術家になってくれると考えた。トリアーは、母親の考えの事実が分かってから、うつ病になってしまうことが増えた。そして、彼の映画の独特な女性の描き方や”理想”を見ている人が裏切られて行くタイプのストーリーは、彼のこの育て方に影響されていた。
僕の学校で教育の責任を持った世代はほとんど左翼だったから、それがどのようなものだったかは体験者として理解できる。
私たちの世代に左翼の議論の仕方やエッセイの書き方を受けついでいても、その語っている内容は全く受け継いでいない。トリアーにも、それがはっきりと見える。また、トリアーの戯曲作家ブレヒトからの影響の使い方に、それが見れる。ブレヒトは”民衆を教育する”為の客観的なシアターの方法論を作った。ブレヒトにとって、それはアンチ・ワグナーであり、アンチ・ホリウッドの民衆の為の芸術であった。トリアーは、子供の頃からブレヒトを聴かされていて、その演劇論以外に、『ドッグスヴィル』ではブレヒトと作曲家のクルト・ワイルの『海賊ジェニー』の歌の内容からも影響を受けている。しかし、ブレヒトの20世紀の共産主義的な考え方は取り入れない。『ドッグスヴィル』はブレヒト的なセットだと言われている。いかにも空白な映画セットにチョークで、誰々の家、庭、、犬、と指示が書いてあるまま映画が撮影されている。ニコール・キッドマンやホリウッドの伝説的な女優、ローレン・バカールが、そこで見事な演技をしている。演技があまりにも見事で、それだけでも映画の世界にワグナー的に飲み込まれてしまう。
『ドッグスヴィル』のストーリーの内容は、理想主義的な考え方に燃えている女性が、ドッグスヴィルというアメリカの田舎町に来る。時は1930年代。大恐慌の最中だ。当時は、ウディ・ガスリー等が労働組合や政治的な集会に回って歌を歌い、多くのインテリはスターリンに憧れていて、スターリンのスタイルの共産主義が理想に見られていた。『ドッグスヴィル』のストーリーは、いかに”民衆の為に”と考えている一人の人間が、その理想の為に傷付いて行き、理想と逆の結果を作ってしまうという事を描いている。こういうストーリーを描ける人は1960年代や1930年代にあった20世紀のコミュニズムの理想主義を見ていて、そうした思想の本を読みつくした上に、それに傷を付いていなければ描けない内容だ。だから、私たちの世代の代表的な芸術だと思う。これと映画『マンダレイ』は3部作の第一作目と第二作目として描かれている。そして、両方の映画はデヴィッド・ボウイの曲『ヤング・アメリカン』で閉じる。僕はトリアーの映画の音楽の使い方はいつも見事だと思っているが、この二つの映画で歌われている『ヤング・アメリカン』のの歌詞の内容と映っている映像のシンクロは本当にさすがである。今度、歌詞を見ながら、映像を見てほしい。『マンダレイ』では、理想に燃えた女性が、アメリカの南部で未だに奴隷の生活をしている黒人達に出会い、彼らを解放をして、民主的な生活に教育しようとする。しかし、彼女が頭の中で描いていた”民衆”と実際は全く別のものだと気づいていく。そして、自分も矛盾した奴隷主のような行動もとってしまう。人間の心理と実際の現実で行う事を描いているドラマだ。見ている人は、その語られている内容に反発を覚えるかもしれない。しかし、考えさせる事が一つの重要な目的でもある。
”自由な教育”とは何か?そして、どういった結果を生んだか?哲学者のスラヴォイ・シジェックは、『自由にしてよい』という事は一つの命令を出すよちも独裁的に聞こえる場合があるとよく語っている。このような例を出している。親が『おばあちゃんの家に行きなさい』と言ったとする。これは一つの命令なので、反発する事が出来る。しかし、『おばあちゃんの家に行った方がいいと思うよ。喜ぶ姿を見たいだろう。』これには、一見自由を子供に与えているように外からは見える。しかし、本当は後で『だから、言っただろう。おばあちゃんの家に言った方がいいよと。君は全くしょうがないのだから』と言われるような準備である。つまり、反発をする自由をうばった上に、喜ぶ姿を自分で喜ばなければいけない。だから、人にとっては、反発が出来るというのが自由であったりする。これは、僕が”自由な教育”をしていたつもりの左翼から感じた事でもある。
例えば、スターリンの時代で、スターリンの意見に対して反対したものは強制収容上に送られると知られていた。しかし、スターリンの意見に反対する事を言ってはいけないと表現した人の方が、先に消されてしまう。それは、ソ連という社会主義諸国が”自由”であって、みんなで決めているという幻想が消えてしまうのを防ぐためだからだ。
議論の仕方を覚えるというのは重要な事である。独立した考え方の仕方を覚えるからだ。しかし、独立した考え方が今度、その左翼の考え方に対して向けられる事になる。『知らざれる毛沢東』という本を発表した『ワイルド・スワン』の作家は元々は文化大革命の最中、紅衛兵だった。毛沢東に対する批判の仕方は紅衛兵が鄧小平等が資本主義の道に走っているという批判を書いていた時と同じアプローチを取っていると書かれている文芸評論が出ていたのを思い出す。元ユーゴスラビア社会主義連邦共和国のスロヴェニアの哲学者スラヴォイ・シジェックは、チト大統領の時代で最も忠実そうに見えた芸術家達がユーゴ崩壊以後に最もチト大統領時代の人たちに対して批判的になったと書いている。しかし、その批判の仕方の方法論には社会主義の時代に学んだ、批判の仕方と議論の方法が入っている。トリアーのブレヒトの使い方も、このように、プレゼンテーションの仕方にはブレヒトの影響が見えるが、語っている政治的な内容社会に対する意見は、その時代の間違いを見て、それを超えたものになっている。私たちの世代の考え方を代表していると思うのは、こういうところにもある。
トリアーのカフカからの影響も、同じように独自のものになっている。カフカは父親に虐待を受けて育った人であり、カフカの文学に出てくる”体制”には父親とのイメージが重なっていると分析されている。だから、カフカを使う人には、父親との問題を”体制”や政治的な問題にすり替えて語る人も多い。トリアーはブレヒトの使い方と同じように、カフカの技法的な部分に影響を受けている。それは映画監督ウエルズがカフカから学んだ方法論でもあった。トリアーの場合は自分自身をを女性として描く事が多い。映画の女性のキャラクターを通して自分の考えを語る。母親との問題でトラウマになった内容や、彼が現代社会に感じている問題は、彼の映画では女性のストーリーとして描かれる。
トリアーの作品にはブラック・ユーモアが見れる。あまり、シリアスに考えてしまうと、笑えるところがかなりある事を見逃してしまう。『メランコリア』という映画は、地球の終わりで、映画が閉じるが、哲学者のシジェックは非常にオプティミズムにあふれた映画だと語っていた。人間の描き方にそう感じさせるのだ。ビョークの出演している『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も一見暗そうな映画に見えるが、トリアー独特の描き方を知っている人には、そのユーモアの感覚が伝わってくる。僕にとっては、ロックのザ・キンクスやピンク・フロイドのザ・ウォールの歌詞やコメディー・グループのモンティ・パイソンにも通じるところがあると思った。
トリアーは影響を受けたアーチストにデヴィッド・ボウイとリヒャルト・ワグナーの名前を語っている。彼の映画『メランコリア』は、映画の全編の2時間に使われる音楽はワグナーと『トリスタンとイゾルデ』である。そして、クレジットの時に同じ『トリスタンとイゾルデ』の第三幕の”愛の死”のテーマが流れる。素晴らしい音楽の使い方だった。僕も同じ時代にこの『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲を僕の音楽劇の作品『ハワイの女神ペレ』でアレンジして使っていた。その為に、この映画を見たら、何て自分の表現したいところと近いのだろうか、と思ってしまった。
トリアーの世界に触れたかったから、まずこの『メランコリア』と『ドッグスヴィル』を推薦する。
文書:Ayuo Takahashi