ジョン・ケール・インタビュー 2001年
これはタワーレコードのフリーマガジン、INTOXICATEやMUSEEのためにAyuoが取ったインタビュー。当時、雑誌に載ったのは新譜の話しを中心としたCDのプロモーション用のインタビューの部分だったが、実際は一時間も長いロング・インタビューを取っている場合が多かった。そして、その話がとても面白い。また、このようなインタビューのテープはたくさんあった。一冊の本がインタビューで埋まってしまうほどあった。それを次々と聴き起こして出版できるように用意をしている。
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ジョン・ケール・インタビュー 2001年
1960年代後半のニューヨークはロック、ジャズ、実験音楽、演劇、フィルムなど色々なジャンがそれぞれエネルギッシュでしかもお互いに交流があった時代だった。そのような時代はその後、見ていないし、当分ないかもしれない。
僕と僕の両親がニューヨークに渡ったのと、同じ時代に英国のウエールズからニューヨークに行って、ギリシャの作曲家、ヤニス・クセナキスに作曲を学んでいた音楽家、ジョン・ケールがいた。彼はミニマル・ミュージックの父と呼ばれているラ・モンテ・ヤングと実験音楽のグループを作ったり、ルー・リードと共にヴェルヴェット・アンダーグラウンドを結成した。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとそのメンバー達の活動は僕にとって最も影響を受けた人達の一つだ。ルー・リードの詩と歌。ニコの作曲する中世ヨーロッパのモードの歌。ジョン・ケールの音楽やアレンジ。小学一年生の時から、今や有名なアンディ・ワォーホルのバナナのジャケットが家にあった。
小学生の頃は、よく母親と日本から来ていた横尾忠則、寺山修司や篠山紀信などとニューヨークの有名なダンスクラブ、エレクトリック・サーカスに行っていた。エレクトリック・サーカスの下にドームと言うライヴハウスがあった。そこでヴェルヴェット・アンダーグラウンドのメンバーも演奏しているのを見かけた。ルー・リードのヴェルヴェット・アンダーグラウンドが解散する前の最後のライヴの時も、母親と義父と共にマックス・カンサス・シティにいた。中学生の頃には、デヴィッド・ボウイやジェネシスのアルバムと共にヴェルヴェット・アンダーグラウン、ルー・リード、ニコ、ジョン・ケールのアルバムを繰り返し聴いていた。音楽だけじゃなく、その詩の世界にも大きな影響を受けた。ヴェルヴェット・アンダーグラウンの曲『The Gift』でサイケデリックなバンドの響きの上に語られるジョン・ケールの朗読は僕にとって革新的だった。
ジョン・ケールに2001年に長いインタビューをした。いろいろなことが聞けた。
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Ayuo: 今もニューヨークに住んでいるのでしょうか?
ジョン・ケール: そう。
Ayuo: でも、よくウエールズに帰っていますね。
JC: 親戚がいるから、時間がある時は戻るようにしている。自伝を書いた時に知らなかった父親側の親戚を最近発見したんだ。そこで自分の家族について知らなかったことをたくさん学んだ。自分がティーンエイジャーだった頃に気になっていたが、誰も教えてくれなかったことなど。自伝には正しいことを多く書いたが、間違っていることもあった。
自分の母親側のお婆さんがあまり好きじゃなかったんだ。お婆さんは、お母さんがガンになったことをみんなの前で僕のせいにした。13歳の僕には、どうして僕のせいにしたのか分からなかったんだ。お母さんは乳がんで、手術をした。しかし、保守的な社会だったから、乳がんという言葉を誰も口に出さなかった。口出すことさえも禁じられていた。お母さんはすごく近い存在だったのに、突然ある日から家にいなかった。何が起こったのか、誰も説明しなかったし、誰も分からなかった。
僕の父親側のおばさんがこないだ僕に語ったことが、僕のお婆さんがどんな人がだったかが分かる話だった。僕の父親は南ウエールズのカーディフから来た人で石炭労働者だった。だが、彼は英語はを話さなかったが、僕の母と結婚した時、彼女の家族と一緒にウエールズ語を話すウエールスのガーモントに引っ越した。僕の母の母は家庭では英語を使うなと言ったので、彼は家で何も話せなくなった。
聞いていて気持ち悪くなるような話だった。
A: それでは父親とあまりコミューケーションが取れなかったのですか?
JC: 僕はウエールズ語しか話せなかったし、彼はウエールズ語を話せなかった。英語は僕が七つになって、学校に行き出すまで習わなかった。だから、コミューケーションが問題だった時期があった。そして、ぼんやりとしていた記憶の理由が明解に分かった。
では父とはどうやってコミューニケーションを取れたのだろうか?それは多分音楽のようなコミューニケーションの取り方に違いないと,
僕は思っている。音楽のようなコミュー二ケーションは英語やウエールズ語も超える事が出来る。音楽のようなコミューケーションで人と分かり合えるようになった事は僕にとっては他では得られない慰めになった
A: 育って行くときはどんな音楽を聴いていたのでしょうか?
JC: ラジオ。多くの情報はラジオから得ていた。
故郷はウエールズの宗教的にとてもきびしいところだっだ。日曜日にラジオを書けるな”“バッハなんだけど”“だめだ!”(神が休みの日としている。)』そんなウエールズに居た15、16、17歳の頃ベッドにもぐり込み、カヴァーを幾つも重ねて音が漏れないようにして、“ヴォイス・オヴ・アメリカ”、“ラジオ・ルックセンブルグ”を聴いていた。ジョン・コルトレーンや新しいジャズなど初めて聴いた音楽が多かった。
僕のCD『Music for a New Society (新しい社会のための音楽)』の曲、『Rise, Sam and Rimsky-Korsakov』はサム・シェパードの詩に基づいているけど、全世界の情報がラジオが来ている精神状態のことを表している。外の世界で行っていることに刺激を受けて、いつか絶対に飛び出してやると思っていた。
いろいろなところに行くことが昔から楽しかった。どこに行っても、人の顔を見ながら会話を聞くのが好きだ。見たり、聴いたりしているだけでも人間についてのたくさん情報が得られる。そして、世界中の人間は同じだ。ただ、表現の仕方が違っている。こうしたことが面白い。レストランで人の会話を見ているだけでも面白い。It fascinates me.
A: 子供の頃、ウエールズに伝統音楽はありましたか?
JC:たくさんあった。宗教。。オラトリオ、ヘンデルのメサイヤでヴィオラ奏者としてローカルのオーケストラから雇われることも多かった。
A: ジグ(ヨーロッパの伝統的な舞曲)などはどうでした?
JC: それがギグ(仕事)だった。音楽やっているクラブなどなかった。
A: ギグじゃなくて、ケルト系のジグのことを聞きたかったのでした。
JC: ジグはアイルランドの方だ。ウエールズの伝統曲は歌の曲が多かった。
A: ニューヨークに行く前のあなたの作品はどんな感じでした?
もっとメロディーを中心にしたものでした?
1990年代のCD『Words for The Dying』に収録したディラン・トーマスの詩に付けた作品オーケストラ歌曲はとてもメロディアスでしたね。
JC: ウエールズの詩人、ディラン・トーマスはウェールズで育つ者にとってはとても大きな存在だ。ドイツ人にとってのゲーテと同じだ。彼は英語を他の詩人がウエールズ語を使うように使った。ウェールズ語は、英語よりも少ない単語でより多くのことが表現できる。 ディラン・トーマスの詩に歌を付けるというのは私にとって大きなチャレンジだった。彼の詩の響きはもうすでに音楽であった。僕が学生だったときに、トーマスの言語のノイズの響きに圧倒されるほどたった。これだけもうすでに音楽的になっている詩にどうやって音楽を付けられるのだろうか?。 僕のCD ”Words for the Dying”「(ディラン・トーマスの詩による) 亡くなって行く人のための言葉」は、このチャレンジの答えだった。
当時、ブルー・オイスター・カルトのアラン・ラニエと一緒に、彼のスタジオで遊びでいろいろな音楽を録音し始めてみようかと話し合っていた時に、ディラン・トーマス全集の本を買って、これにチャレンジしてみることにした。そして、全ての詩に音楽を付けてみようということにした。これが僕に考えられる唯一の方法だった。毎週、月曜日に初めて、始めたものは必ず金曜日には終わっている。本に載っている全ての詩に音を付けてみる。こうした方法を取ることによって、パズルの答えを探すように自分にとっての答えをやっと見つけた。
そして、初期の曲については、君の言う通りだ。ニューヨークに行く前は、とてもメロディアスな作品を書いていた。その後で、抽象的な作品を書くようになった。抽象的になったのは、勉強中だったからだ。勉強している時は、なるべく多くの方法論を学ぼうとしていた。
Ayuo: どのようにしてニューヨークに行くことになったのですか?
僕の両親は音楽で僕が成功出来るように貯めたお金を僕に渡して、僕は最初ロンドンに勉強しに行った。そこで当時24歳だった作曲家、コーネリウス・カーデューと出合って、ニューヨークで行なっているFLUXUSの活動の事を知った。作曲家のコープランドのインタビューで合格してアメリカのタングルウッド・コンサーヴァトリーで勉強する学費(Scholarship)をもらえた。そこでギリシャの作曲家、ヤニス・クセナキスと出会い、彼に作曲を学び始めた。クセナキスに気に入られ、クセナキスのピアノ曲がニューヨークで演奏される時に彼に連れてってもらった。
1960年代の初め頃のニューヨークのロワー・イーストサイドでは何百人も自分は詩人だと言っている人たちがいた。そしてみんな仕事か恋人を通してつながっていた。毎晩のように音楽家、詩人、ダンサーと言っていている人たちは街角や屋根の上でもやっていた。ダンサーのステージ・セット代わりにフィルムはよく使われていた。そして間に詩の朗読があった。ラ・モンテ・ヤングは大きなロフトに何匹の亀と一緒に住んでいた。ヨーグルトを作って、オーガニックな食事を食べていた。彼のロフトは中東のアヘン窟のようだった。みんな床の上にすわっていた。彼はドラッグを売って生活をしていた。
Ayuo: クセナキスと作曲を勉強したのはいかがでした?
JC: 僕はクセナキスと出会う前から確率論など数学の哲学を勉強していたから、クセナキスの作曲理論は理解出来たが、それは彼の作品の凄さとはまた別の物だと思った。彼のノイズは凄かった。彼の音楽はギリシャの民族音楽のようだった。彼はオーケストレーションの事をよく分かって、スリリングな現代のギリシャの音楽を書く事が出来た。ヨーロッパでは自分のやっている事を理論的に説明しなければいけない風習がある。ジョン・ケージの場合はメソッド(方法論)があったが、それは禅の基づいていて、生きてゆく事の上での全体的な考え方だった。自分の作品を説明するだけ物ではなかった。
クセナキスと知り合う以前に、フーリエ理論や確率論といった現代数学の思想を学んでいたから、彼が何をしようとしていたか、なんとなく理解はしていた。だけど実際に音楽を聴いてこんな数学なんて彼の音楽とは何の関係もないと感じた。だって彼の音楽は素晴らしい。とてつもないノイズを音楽として作曲した。彼はどんな風にオーケストレーションすればいいのかが分かっていて、つまり刺激的なのはまさに、彼のオーケストレーションなんだ。
彼の音楽はギリシャの民族音楽のようだった。彼はオーケストレーションの事をよく分かって、スリリングな現代のギリシャの音楽を書く事が出来た。
ヨーロッパには少し、自分が何をしているかを理論的に説明しなければならない心的状態というのがある。ジョン・ケージが素晴らしいのは、彼には方法論(メソッド)があるからだけど、それは禅の影響に基づいているものだったりする。そして、それは世界観であって、自分のやっていることを正当化しようとするものではない。生きてゆく事の上での全体的な考え方だった。
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ジョン・ケールはラ・モンテ・ヤングの所でドラッグを売るのを手伝いながら、彼と一緒にグループを作った。みんなドラッグの販売で捕まってしまった時もあった。その時もクセナキスに助けをお願いするの手紙を書いた。
メンバーはラ・モンテ・ヤング、トニー・コンラッド、アンガス・マックリーズ、テリー・ライリーとジョン・ケールでとThe Theatre of Eternal Musicと名づけられれた。最初はラーガとブルースを混ぜたような音楽をやっていたが、ジョンが自分のヴィオラの自然倍音でインプロヴィゼーションをするようななると、ラ・モンテ・ヤングは自然倍音に基づく純正長を研究するようになる。そして伝説となったThe Theatre of Eternal Musicの音楽が生まれた。ラ・モンテ・ヤングは他のメンバーが辞めていっても、この時の音楽をやり続けた。ミニマル・ミュージックの父と自分で言うようになった。
トニー・コンラッドのレーベルから出ているジョン・ケールのCD『Sun Blindness Music』にはジョン・ケールのこの頃の純正長のインプロヴィゼーションが聴ける。彼はトーマスのエレクトリック・オルガンをラ・モンテ・ヤングの使っている純正長に調律して、キーボードのクラスター音を中心とした曲をインプロヴァイズした。その音楽にはクセナキスの影響ではないかと思わせるようなエネルギッシなノイズが聴ける。しかし、大きな違いは、その音は理論的に組み立てられているのではなく、即興的に作られているということだ。
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JC: トニー・コンラッドは1960年代半ば当時に録音した音源を聞きなおして3枚のCDに編集した。たくさんの音源があった。こうした音源は友人たちと部屋にいて、面白い音を作ってみようと思う時に出来るものだ。面白くて、笑ってしまうものもある。
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ジョン・ケールはルー・リードと共に結成したヴェルヴェット・アンダーグラウンドで知られてゆく。ルー・リードは元々からニューヨークのブルックリン出身の詩人・シンガー・ギタリスト・ソングライターでニューヨークに60年代に集まってきた色々なアーティスト、ダンサー、ミュージシアンや役者を彼の書く歌で描いた。ルー・リードのアルバム『Transformer』や『Berlin』でも、その姿がはっきりと伝わって来る。これらのアルバムの描いている世界が僕が子供の頃に見ていた世界である。
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A:ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは今や1960年代のバンドとして、最も影響を与えたバンドの一つだと思うのです。多くの1970年代のバンドはヴェルヴェット・アンダーグラウンドに影響を受けていた。
JC: まだ、100万枚売れていないと思うけど。少しづつ広がって行った。ルー・リードは、レコード会社が僕らにウソをついているんだ、と言ったけど、僕はそうは思わないな。60万枚位かもしれない。
影響は確かに与えた。だけど、それだけだ。
A; 前衛とロックをつなげたバンドとしてメディアでよく取り上げられていた。
JC: 最近の前衛はロックの中にあるように思ったりする。私達の世代は、ステージの上で何が出来るかを広げて行った。レイディオヘッドはレコーディングで何が出来るかを広げている。彼らは曲の構成をレコーディングによって変えている。今までの曲の構成と違っている。だから聴いていて面白い。表現力をたっぷりあるし。
A: まだ、僕はレイディオヘッドをたくさん聴いていないのですが、他に最近好んで聴いているものはどんなのでしょうか?
JC: 何かな? そうだ。レナード・コーエンの新譜にいい曲があった。Alexandra Leaving。これは古典として残る曲だ。
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A:ヴェルヴェットの後、初めてのアルバムはテリー・ライリーとのジョイント・アルバムでしたね。
JC: 初めてのソロ・アルバム『ヴィンテージ・ヴァイオレンス』を作れたのは、その前にテリー・ライリーとのアルバムを作ることによってやっていいとレコード会社に言われた。レコード会社はテリー・ライリーやラ・モンテ・ヤングなどの現代音楽系の作曲家達をもっとポピュラーに出来るレコードを僕に作って欲しかった。ちょっとポップな色を与えて欲しかった。でも、ラ・モンテは抽象的な事を言い出していた。CBSの人が、ラ・モンテと話すと、どんどん小さくなって行く円を思い出すとい言っていた。説得することが出来なかった。
でも、テリーは全然大丈夫だった。一つだけテリーが気にしていたのはと当時は16トラックしかなかったから、一つのトラックにテリーのオルガンを二つ録音しyてあった。ミックスの時に一つをもう一つのオルガンよりも大きく出したいと要求しyた時に、同じトラックに録音してあったからそれが出来なかった。でも彼が気になったのはそれだけだった。
A:良い思い出になっていますか?
JC: 楽しかったよ。それであっと言う間にできた。
A:1990年代では、スージー・アンド・ザ・バンシーズをプロデュースしましたね。
JC: あれは妙な体験だった。みんなが新しい作品を作りたいと言いながら、実際は誰も動かなかった。会う前は、彼らはエッジー(危険)な生活をするのが好きな人達で、いろいろことで実験するのも好きな人達だと思っていた。でも会うと、誰もが仕切りたくないようだった。あるいは、誰かがコントロールしないと出来ないと思っているが、その責任を誰も取りたくないという感じだった。だから僕は待っていた。僕が会った時、もうすでに15年間もバンドだった。バンドの世界ではそれは記録的に長い。だから、何とかアルバムを完成させた。
パティ・スミスからバンドは本当に気を付けなければいけないと学んだ。バンドというのはファミリーと同じだ。全体で一つだ。
A:パティからそれを学んだのですか?
JC: パティを始めてプロデュースした時、スタジオで君たちの使っているこれらの楽器は古いし、ネックが曲がっている。だから、最初の日に新しいギターを持って行った。僕はいいことをしてあげていると思っていた。いいギターを使えば、チューニングが狂うことに気にしなくていい。でも彼らにとってはそれが最低だった。『自分のギターの音が好きなんだ』って言われた。分かるでしょう?誤解を作ってしまった。だから、スージーをプロデュースすることになった時は、バンドであることをリスペクトしながらやって行こうと考えた。
A: ナム・ジュン・パイクは最近どこかで、自分たちの世代があまりにも多くのことをやってしまったから若い世代にはかわいそうだと言っていたらしいですね。
JC:それは、若い世代にもっと頑張れと言っているようなものだと思うよ。僕らが若かった頃と比べて、今の若い世代が別の立場にいると思わないね。我々は考え方の革命を起こしたのだと思う。ラ・モンテやナム・ジュン・パイクはフルクサスで多くのパフォーマンスをやっていた。そこからパフォーマンス・アートは始まった。ラ・モンテのComposition #3もそこで最初に演奏された。私たちがたくさんのことをやったから、新しい事をやるのが大変になったって?嘘だ。ナム・ジュン・パイクの言っていることを認めない若い人もたくさんいると思うね。『ここはアカデミーじゃないんだよ』って言ってね。
A: しかし、1960年代は多くの人が物事を変えたいという時代だった。多くの人がどうなるか、実験してみたかった。
JC: そう。それで、それは一人だけじゃなく、みんながそうだった。それは進歩するのが遅すぎると感じていたからだ。進歩はレニー・ブルースなどがやっていた。(アメリカの戦後のスタンド・アップ・コメディアン。)彼は一人で多くの影と戦っていた。そして、その影が何なのかまだ分かっていなかった。そして、それはアメリカの最高裁判所として現れた。そう見えるとマルクス思想的な精神状態になってしまう。体制と戦うには、別の体制を作ってしまおうという考えになってしまう。システムがなければ成功できないと思ってしまう。それを支える組織が必要だと思ってしまう。でも、そうじゃない。新しく支える組織は必要ない。ベトコンなどは、そうした組織が必要だと見せつけたかもしれないが、それは政府を作る場合だ。私達が言っていることはアイディアの革命の事だ。例えば、1960年代前半のコンサート・ホールで何が出来たか?何が許されるか?オノを持って来て、テーブルを割ってしまうのは、当時コンサート・ホールで許されなかった。それでも、タングルウッドの学校で、僕が学生の頃、作曲のコンペティションでそれをやるのを許可してくれた。本当はそういうことをやって欲しくなかった。アイディアを提出してから3週間も待った。でも、それをやる意味は、ショックを与えることにあった。
あの時、クーセヴィツキー夫人(ボストン交響楽団の常任指揮者であったセルゲイ・クーセヴィツキーの奥様)は客席にいた。そして、僕がテーブルをオノで割ると泣きながらホールの外に飛び出した。学生が大勢僕を待ち構えていた。その曲は長い間演奏してみたかったが、暴力的だったから演奏させてくれなかった。何をやろうとするのか学生たちは分かっていて、数人は卵を持って待っていた。
A: あなたに卵をぶつけようとしたんですね?
シーズンの最後のコンサートだった。言わなくても分かると思うが、作曲のコンペティションで賞はもらわなかった。
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ジョン・ケールはこのインタビューの後で、ウエールズの最も有名な神話、『Mabinogion』の一時間半のアニメーション映画の音楽を担当しに行く。その映画はウエールズ語と英語での曲がたくさん入る予定だ。それ以外にもウエールズの文化を紹介する作品とかかわるようになってきた。
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JC: 『Beautiful Mistake』というウェールズのバンドが出ている映画の音楽にもかかわることになった。ウエールズ語で歌うスーパーフューリーズやカタトニナ。そしてウエールズの民謡を演奏するたくさんのバンド。カーディフについてのドキュメンタリーなんだ。これを見て、ヨーロッパの都市になったな、と思った。まるでキエフみたいに見える。昔はただ汚い都会だと思っていた。いまではモダンなビルがたくさんある。
A: 音楽監督としてかかわっているのでしょうか?
JC: そうだね。カタト二アやスーパーフューリーズとも共演している。ウエールズ語の曲もある。スーパーフューリーズはウエールズ語で歌っている。彼らは自分たちのアイデンティティについて本当に語って来たバンドだ。『私たちはウエールズ人だ。私たちはウエールズ語で歌う。』そして成功している。
A: ウエールズ語で歌った曲は今までないですね?
JC: やっていなかった。本当はやりたかったけど。でもいい詩を選ばないといけない。だから今回はいいチャンスだ。僕はウエールズの伝統的な詩のサークルに入っている人を知っている。その人と誰と共作をするべきかを相談している。まだ、やっていないけど、その機会は来る。
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