“I” and “Not I” composed by Ayuo

“I” and “Not I” 作曲:Ayuo (Full English translation is on the youtube link.)
この曲では、僕はエレクトリック・ヴァイオリンを弾いている。9月のOUTSIDE SOCIETYからの演奏。ジャーナリスト、ドナルド・リチーさんの日記、そしてカール・ユングの考えからインスピレーションを受けて作った曲。
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ある時、小さな南部の街からニューヨークに来た若者と話していた。彼にニューヨークの生活はどう?と聞いた。彼の言った『故郷ではみんなが僕のことを知っている。おまわりさんもバスの車掌.も、みんな僕に挨拶をして、僕が誰かを分かっている。ここでは誰も僕のことを知らない。自分のアイデンティティーを失ったようだ。』 彼は自分の以前から知っているコミュー二ティーな中での自分の姿だけが自分のアイデンティティーだと思っているのが見え見えだった。彼はまだ”Not I” (自分の見えない自分)と”I”(自分)についての違いが分かっていなかった。だから、自分の知っている社会以外のところでは、自分のアイデンティティーが失ったようだった。
私たちはみんな自分たちの小さな世界に閉じこもって生きていかなければいけないのか?周りの世界に無意識のまま、生きて死んでいくのだろうか?『これが私だ!』と言わないといけないのか?私はこうした考えに賛成出来ない。カール・ユングも賛成していなかった。

—————-心理学者カール・ユングの考え方を紹介するM. エスター・ハディングのエッセイよりの抜粋
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Ayuoのドナルド・リチーの日記に基づく『OUTSIDE SOCIETY』からの歌ー『FREEDOM FROM BELONGING TO A NATION』

生まれつきの文化圏を離れたことがない者は、
ずっとそこに縛られている、
そうとは気付かないままに。
その人に自分の文化について訊くなんて、
魚に水が何かと訊くようなもの。
何と答えられる?

ここに来て、
または、他所に行って、
一旦、あなたの眼が開かれてしまったら、
二度とその眼は閉じられない

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Ayuo: エレクトリック・ヴァイオリン
Christopher Yohmei Blasdell: 尺八
Kondo Tatsuo: キーボード

9月25日2014年、渋谷Last Waltzでのライブ演奏

カール・ユング の夢日記  台本, 作詞  by Ayuo (カール・ユング の考えに基づく)

今度の12月8日の新世界の『夢日記 Vol 2』のライブで演じるカール・ユングの夢日記』のテキストです。

会場:音楽実験室・新世界の12月8日の情報ページ。
http://shinsekai9.jp/2015/12/08/yumenikki2/————テキスト——————

カール・ユング の夢日記  台本, 作詞  by Ayuo (カール・ユング の考えに基づく)

世の中に悪がある理由は人々が自分の物語を語れないからだ。
昼間の世界で忘れていた神話は夜の夢として語られる。ー カール・ユング

これはユングが昼間のイマジネーションで見ていた夢の記録からの物語
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PART ONE
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パート・ワン
ユングは自分の心に存在している魂をアニマと名付けた。
アニマとの対話。
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SONG
where are you my child  作詞:Ayuo Carl Jung の考えに基づく

where are you my child
In my dreams
God is my child
And my child is my God.

神は子供なの?
乙女なの?
私の前にあらわれる子供よ。
いつも夢では
あなたは私の子供

私の中の神よ
いつも夢では
あなたは私の子供

A maiden is the future
The boy makes the path

In my dreams
God is my child
And my child is my God.
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私の魂よ、どこにいるのだ?私の声が聞こえるか? 私だ。あなたに呼びかけているのだ。そこにいるのか? 私はもどってきた。

“My soul, where are you? Do you hear me? I speak, I call
you-are you there? I have returned, I am here again. I have
shaken the dust of all the lands from my feet, and I have come
to you, I am with you. After long years of long wandering, I
have come to you again. Should I tell you everything I have
seen, experienced, and drunk in? Or do you not want to hear
about all the noise of life and the world? But one thing you
must know: the one thing I have learned is that one must live
this life.

This life is the way, the long sought-after way to the unfatholnable, which we call divine.
There is no other way,
all other ways are false paths.
I found the right way, it led me to you, to my soul.
I return, tempered and purified.

Do you still know me?
How long the separation lasted!
Everything has become so different.

And how did I find you? How strange my journey
was! What words should I use to tell you on what twisted paths
a good star has guided me to you?

Give me your hand, my almost forgotten soul.
How warm the joy at seeing you again, you long disavowed soul.
Life has led me back to you.
Let us thank the life I have lived for all the happy and all the sad hours, for every joy, for every sadness.
My soul, my journey should continue with you.

I will wander with you and ascend to my solitude.”
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(私は怪物                 作詞:Ayuo Carl Jung の考えに基づく
Ayuo: Bouzouki
Yoko Ueno: Vocals
with other instruments)

行く道ははっきりとしてない
砂漠はからっぽに見える
魔術を使う者が住んでいる
彼らは私にくっつき
私を曲げた形にする

私は怪物
私が私に見えない
動物のような怪物

行く道は魔術にあふれている
見えない罠が私の前に
たくさん隠されてる

アニマはアニマの世界を
持っている
そこに入れるのは
自分だけ

私は自分の思考となった
そこからも離れようとすると
砂漠になっていた
私の心の砂漠
そこで太陽が燃えている
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私の魂は、私を砂漠へと、私自身の自己の砂漠へと導く。自分の自己が砂漠だとは思ってもみなかった。
なぜ私の自己が砂漠なのだろう?
私は自分の思考であった。けkれども、私は自分の自己ではなく、自分の考えと対決していた。
私は自分の考えも超えて、自分自身の自己にならなければならない。
私の旅はそれを目標として、人間や物事から離れて、孤独に至るのだ。孤独とは自己が砂漠の時だけだろう。
私の魂よ。私はここで何をすべきなのか?

My soul leads me into the desert, into the desert
of my own self I did not think that my soul is a desert, a barren,
hot desert, dusty and without drink.

Why is myself a desert?
Have I lived too much outside of myself in men and events?
Why did I avoid my self?
Was I not dear to myself?
But I have avoided the place of my soul.
I was my thoughts after I was no longer events and other men.
My journey goes above my thoughts to my own self,
and that is why it leads me into solitude.
Solitude is true only when the self is a desert.

The way is only apparently clear,
the desert is only apparently empty.
It seems inhabited by magical beings
who murderously attach themselves to me
and demonically change my form.

I have evidently taken on a completely monstrous form
in which I can no longer recognize myself
It seems to me that I have become a monstrous animal form
for which I have exchanged my humanity.

This way is surrounded by hellish magic,
invisible nooses have been thrown
over me to ensnare me.

And so I have become my thoughts
And when I tried to escape from my thoughts
I became the desert
the desert in my heart

Should I also make a garden out of the desert?
Should I people a desolate land?
Should I open the airy magic garden of the wilderness?

But my soul spoke to me and said, “Wait.”
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無意識にあるものを意識するようにしなければそうしたものがあなたの人生を支配してしまう。
そして、あなたはそれが運命だと思ってしまう
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人は自分の中にいる魂達に会いたくない
会わないためにどんな事でもする。
無意識にある世界を意識を向く事はいたみなしでできない。

自分自身の暗闇が理解できれば、人の暗闇についても理解できる。
自分を自分で受け入れるほど自分にとってコワイものはない。
ーーーカール・ユング
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PART TWO
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パート・ツー
夢の世界でのサロメとエリアとの出会い。

パート・ツー 夢の世界でのサロメとエリアとの出会い。

Voice B: サロメは聖書に登場する女性。イエス・キリストと同じ時代に生きていた。サロメは義理の父に『宴会で踊ったらなんでも好きなものをあげよう』と言われた。サロメの義理の父はパレスチナの領主ヘロデ・アンティパスだった。踊った後に、サロメは「予言者ヨハネの首」を求めて、ヘロデは仕方なくそれを与えた。この物語は現在オーブリー・ビアズリーの絵、オスカー・ワイルド戯曲『サロメ』やリヒャルト・シュトラウスのオペラで知られている。エリアは旧約聖書に登場する予言者。エリアはユダヤ教ではモーセ以後の最大の預言者でイエス・キリストが生きていた1世紀当時、エリヤがメシアとして再来するという伝承があった事から予言者ヨハネもイエス・キリストも、一部からはエリヤの再来とみなされていた。

Voice B: エリアとサロメが住んでいる場所は暗い空間でありながら同時に明るい空間でもある。

Voice A: 暗い空間だと感じている人は、物事を常に先に考えている人だ。暗いと感じているから常に見たい、見たいと思っている。
物事を常に考えながら生きている人はサロメを恐れている。サロメはその人の頭を欲しがるからだ。

先に考える人というのは遠い彼方が見えている人というわけではなく、過去と未来の間から物事を考えて見ている人の事を言っている。

Voice B: 明るい庭だと感じている人は見ることを必要としない。そういう人たちは無限を感じている。

明るい庭は快楽の空間である。そこに住む者は、見ることを必要としない。そこに住む者は無限が感じられる。思考する者はサロメの庭で次に行く道を見出す。

Voice A: 庭にいる時、私はサロメを愛している事に気づいた。これには自分でも驚いた。それまで、思いもしないことだったからだ。エリアは私に言った『彼女の愛に触れてみて!それによって愛の事が分かってくる。人を神聖な存在に思う事が、あなたも神聖にしていく。そのイメージは自分で作っているから、自分に反映される。』

恋をする時、その相手のイメージはすでに自分が持っているものだ。それを相手に投影して行く。自分は物事を考えて生きている人だと、自分で思っている人は感覚的に生きている人を求めるのは、そうした自分の感覚的な部分を投影出来る相手だからだ。

Voice B: 無意識にあるものを意識するようにしなければそうしたものがあなたの人生を支配してしまう。
そして、あなたはそれが運命だと思ってしまう。

Voice A: 物事を考えながら生きている人にとっては、自分が考えられないものは存在しないと思うことが多い。そして感じる事の方が大事だと思っている人にとっては、自分の感覚で感じないものは存在しないと思いがちだ。しかし、自分の正反対の性格を受けいると初めて両方の見方が分かってくる。

Voice B: 恋をしている人は満ち溢れ出てくる器のような状態になっている。そして、愛を与えられるのを待っている。

Voice A: 恋 をできるひとはいいな!
恋をしている時の人には創作力がある
自分の世界を創って
それを広げられる

Voice B: エリアは言った、「言葉は動物。自分の意思を持っている。人は自分で物事を考えていると思ってしまうが、人が思考するものは原型として常に私達の周りにある。」。
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言葉は動物 作詞:Ayuo Carl Jung の考えに基づく

言葉は動物
生きている
言葉は自分の意思を持っている
あなたのものでなく
その意味も完全に分からない

言葉は生きてる
あなたの中で
考えが浮かぶたびに
そだつ
言葉は森の動物

思考の中に
たくさんの動物を
住ませている

その存在に気が付かず者は
その動物となってしまう

言葉は動物
生きている
あなたの中の動物
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Voice A: 私は、快楽へと降りていくが、愛へと昇っていく。愛に向かって上昇するまでに、ある条件が満たされるのを持つ。それは二匹の蛇の戦いとして示される。左は昼で、右は夜である。愛の領域は明るく、先を考える事の領域は暗い。両方の原理は厳格に区別され、その上敵対さえしているため、蛇の姿をとっている。蛇の姿は両方の原理にあるデーモンの性質を示している。私は、この戦いは前にも見た太陽と黒い蛇の戦いのヴィジョンが反映されていることに気づいた。

Voice B: 旧約聖書や神話で現れる蛇というのは地球上での人間が自分で意識出来ていない自分のエッセンスを表している。そのために、蛇はその時代や場所によって違うキャラクターになっている。

Voice A: 人が生きてゆく道は
蛇のように右から左
そして左から右、
物事を考える事から快感を感じるものへ
そして快感を感じられるものから物事を考える事へと揺れ動いている。

Voice B: 蛇は敵の象徴として現れる事もあるが、
私達の心の中での右と左を繋げる
賢い橋の役目をやってくれている。

This is a video of the second and third songs in ”What We See In The Picture”(recorded as “A Picture of You and I” in the Ayuo’s CD “RED MOON”

This is a video of the second and third songs in ”What We See In The Picture”(recorded as “A Picture of You and I” in the CD “RED MOON”, available from Tzadik Records). A full English translation of the words are at the bottom of this article and also on the youtube page.
これは3月5日にラストワルツで演奏された『絵の中の姿 』の2曲目と3曲目の映像。3曲目にAyuoはマスクを付けています。この日の演奏を見に来てくれたお客さんの一人が次のコメントを書いてくれました。ありがとう。曲の詩が下記にあります。
『そして第二部の最初の曲「絵の中の姿」を聴いたとき、これは男性をシテとする能の「井筒」ではないか、こう思いました。女が幼なじみで、かつて結婚もした在原業平のことを忘れられず、彼の服を着て舞い狂う。そのあげく、井戸のなかに自分の姿、というより業平と一体化した自分の姿を見る。夢幻の世界における「永遠の男性」との合一です。
一方、「絵の中の姿」は、同じく幼い頃からの愛が成就して結婚。しかし40?を過ぎたころ、最愛の女性が逝去してしまう。だがその面影は、彼の心のなかに「永遠の女性」として住み着いている。あるいは住み着かせようと悶え苦しんでいる。
このような思いで聴いていました。それだけに途中でマスクを被ったときも、能面がここで出てくるのも、またそれが縦に2つの顔に描き分けられているのも、当然。失われた「半分」と幻想のなかで一体化しようとしているのだ、などと妄想にふけりながら聴いていました。
こうして、サロメ、さらにはライラ(リリト)から、幼いころからの純粋な愛を投影された女性、さらには池にはまっても、ついでに一周、泳いで廻ってしまう女性。。。さまざまな女性像、そしてそれに伴われる男性の様々な想いがステージに次から次へと登場する。
しかも意図的か否かは分かりませんが、いわゆる「夢幻能」という形式に接近することで、人間のもつ苦しみ、怖れ、怒り、妬み、愛、いとしみ、慈しみ、尊敬といったありとあらゆる感情を引きだしながら、ユングそのままではあまりに血に濡れたままえぐり出されてしまうところを、幽玄な時空間のなかにすっぽりと収めてしまう。
そうして幽玄の時空間を現出させたのは、尺八と琴という和楽器だけでなく、全体のアンサンブルによるものだ、、、、などとあれこれ楽しい夕べを過ごすことが出来ました。』
Ayuo: Dance, Vocals
Yoko Ueno上野洋子: Vocals
Akikazu Nakamura: Shakuhachi 尺八
Toshiko Kuto: 21-string Koto 21弦筝
『絵の中の姿』 作詞作曲:Ayuo
1) 八つの時に
君とはじめて会ったときは
八つの頃だった。
君とは同い年
近所の家の庭で
君の書いた歌を見せた
幸せになるには
繊細すぎる心を持ってた
と思ったが
その後にも
自分で編んだ服を着て
僕の前に現れて
いろんな歌を見せた
終わりかけないのも、たくさんあったが
それはだれにも習ってないから
君と話しながら共に学んで行こう
と言った
十四のときに
君が秘密に
お菓子を持ってきた事がばれて
みんなに笑われたため
その後には
僕の前から身を隠すようになった
2) 結婚の夜に
結婚の夜に
君の鼓動はとても早く
何故と聞くと
永遠の愛のように
君の笑顔が輝いた
3) 四十の時に
四十の時に
君は重い病にかかった
寝たきりの君を治療のために
山につれてった
君を肩にしょいながら
舟で川を渡り
山を越えた
元気になったと思うと
急に倒れて
旅の途中申し訳ないが
と君はは言いつつ
生まれ変わるまで、と言いながら
この世から去っていった
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Translation of words into English by Ayuo.
1) When We Were Eight
I first saw you when we were eight
You and I were the same age.
In the garden of a house nearby
you showed me some songs you wrote
“Such a sensitive heart”, I thought.
And I wondered if you could ever become happy
And after that
you often came to our house
wearing a dress, you made on your own
you showed me many songs
there were many that you hadn’t finished
you told me that it was because
You had never studied with a teacher
“Let’s learn together”, you said to me.
We were 14,
When you tried to bring me a cake.
People found out and laughed
and after that
you hid yourself away from me.
2)On our wedding night
On our wedding night
I felt your heart beating fast
I asked “How come?”
And you gave me a smile with a love
Like that of eternity.
3) When we were 40.
When we were 40.
You became ill and bedridden
To find someone to cure you
I had to take you to the mountains
I carried you on my shoulder
Crossing rivers on boats
And over mountains.
I thought you were getting better
But you collapsed suddenly
Forgive me, but i can’t make it till the end
You kept telling me
See you in the next life, you told me
And you disappeared from this world.

Where Are You My Child? composed by Ayuo

今回は歌です。2015年の3月5日のカール・ユングの夢日記の演奏より。
This time a song from from the performance of Carl Jung’s Dream Journals on March 5, 2015. Words and Music by Ayuo. The words are inspired from Carl Jung’s “Red Book”.
Ayuo: Bouzouki, Vocals
Yoko Ueno上野洋子: Vocals
Akikazu Nakamura : Shakuhachi 尺八
Toshiko Kuto: 21-string Koto 21弦筝
Live at Last Waltz, Shibuya on March 5, 2015
First performance of “Where Are You My Child?”
Words and Music(作詞作曲)by Ayuo
Inspired from an episode in the RED BOOK by Carl Jung.
Video by Asako Morishita

尺八ソロの為の作品『太陽と月を飲み込む』A composition for the solo shakuhachi by Ayuo

尺八ソロの為の作品『太陽と月を飲み込む』
Ayuo – Drink Down the Moon and the Sun
A composition for the solo shakuhachi by Ayuo, performed by Christopher Yohmei Blasdel with Ayuo as the dancer。 (Full English translation is on the youtube link.)

この曲はスコットランド系英国の女流作家、アンジェラ・カーターの短編小説から、僕が個人的に受けたイメージを元に作り上げています。
アンジェラ・カーターは日本に70年代に住んでいた。日本人の恋人を持っていた。彼との間に起きる文化的なぶつかりとそれによって気づく自分の姿がテーマとなっている。この曲は終わりに出て来る8小説のアイルランド民謡以外は全くオリジナルな作品です。このアイルランド民謡はアンジェラ・カーターが特に好きな曲で、この曲についてアンジェラはエッセイを書いている。
このエピソードでは、日本人の恋人を追って日本にアンジェラは来るが、その恋人”タロー”との間には大きな見えない文化的な壁があると気が付く。日本の伝統的な響きを聴いている時に、彼女の心の中に昔彼女が聴いていて好きだったアイルランド民謡のメロディーが浮かんでくる。
精神的な破局を迎えそうになるが、それによって自分のことがより分かってくる。この経験によって実際のアンジェラは英国文学史に永遠に残る名作を書く作家となった。

この曲を書いた理由には、外国人あるいは帰国子女として日本に住むというのは、どういう気持ちになるかを語りたかったからです。(僕もニューヨーク育ちです。)

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小説家、アンジェラ・カーターがいくらかの「脱出」資金を手
にした時、行き先に選んだのは日本だった。ユダヤ教/キリス
ト教文化圏ではないところで、しばらく暮らしてみたかったか
らだ。

(ドナルド・リチーの本”The Honorable Visitors”よりのアンジェラ・カーターについての紹介)
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(アンジェラ・カーターの短編集『花火』よりの抜粋 ー きむらみか翻訳)

彼の名はタローだ、とわかった。初めて彼を好きになった頃、
私は彼をバラバラに解体してみたかった。子供が、その中の不
思議なしくみを知りたくて、ゼンマイ仕掛けのおもちゃを分解
するように。
解剖作業は、すっかり私一人で牛耳ってしまったので、彼の中
には、過去の経験から自分でもとっくに知っていたものしか発
見できなかった。仮に何か新しいものを見つけても、私は確実
に無視した。私はこの作業にすっかり夢中で、それが彼を傷つ
けないかと考えることもなかった。

こんなふうに愛する対象を創り上げ、正真正銘の恋人だ、と証
明書を出すために、私はまた、恋する私、というのが何なのか
という問題に取り組まなければならない。自分で自分を真近に
観て、恋の徴(しるし)を探す。手がかりを、細かく丁寧に。
ほら、みーつけたぁ! 憧れ、欲望、自己犠牲…。私はこういう
症状すべてに一々引っかかってしまった。

で、私はアジアにいたんじゃなかったの? アジア! でも、住
んでいるのにここは遠い。私と世界の間にはガラスの壁がある
みたい。ただ、そのガラスの向こう側には、自分の姿が完璧に
見とおせる。
そちら側で私は、歩き回ったり、ゴハンを食べたり、会話した
り、恋をしたり、ただ無頓着にふるまったりしていた。

自分で望んだ状況が災いだったこと、座礁だったことに気付
いて、私は驚いた。彼の顔は廃墟みたいに見えた。それは私
が世界で一番よく知っている景色、初めて見た時から知らな
いとは思えなかった顔なのに。それは、なんとなく、私が考
える自分の顔というものを映し出しているように思えた。長
いこと知っていて、よく覚えている顔、いつも心の中にこみ
上げてはとどまる幻が、今初めて見える形をとって表れたよ
うな、そんな顔に見えたのだ。
だから、彼がほんとうはどう見える人だったか私は知らない
し、実際、これからも絶対わからない、と思う。なぜって、
彼は空想の形をとって創られた、ただのオブジェだったのだ
から。