When illusion looks like reality, then reality becomes just a fantasy

(English translation below the Japanese)
Ayuoが作曲した弦楽四重奏の作品:”When illusion looks like reality, then reality becomes just a fantasy”(幻想が現実のようにみえてくる時、現実は単なるは単なるファンタジーになってしまう)

この曲はピアノ・ソロのヴァージョンもあります。
ライブやコンサート等でこのヴァージョンかキーボードかアコーディオンで弾いてみたい方は、こちらにメッセージを送ってください。
スコアをPDFファイルでお送りします。

Ayuo初絵本付き、BOX SET『dna』より
Ayuoの独自のオープン・チューニング・ギター(チェロの音域に下げた調弦のギター)、ヴァイオリン、ヴィオラと歌の曲
Ayuoが作曲した弦楽四重奏の作品:”When illusion looks like reality, then reality becomes just a fantasy”(幻想が現実のようにみえてくる時、現実は単なるファンタジーになってしまう)、Sleeping, Dreaming, Dying(眠る時、夢見る時、亡くなる時)、インド神話マハバラータに基づく男性と女性の語り、エレクトリック・グリサンド・ギター、シタール・ギター、ベースとダルブッカによる『太陽の子供』。図形楽譜で書かれた泉鏡花の言葉とヴォイスコラージュ作品『麻野川』等の曲が収録されている。

Ayuo and seashell 『dna』、ジパングプロダクツ株式会社より2009年11月20日に発売された。
http://www.zipangu-label.com/product/15

amazon等でも販売されています。

Ayuo:Composition
甲斐史子(Fumiko Kai):Violin
大鹿由希(Yuki Oshika):Violin
佐藤佳子(Yoshiko Sato);Viola
松本卓似(Takui Matsumoto):Cello

“When illusion looks like reality, then reality becomes just a fantasy” composed for string quartet by Ayuo.

From the CD “dna”.
CD available as an MP3 download from amazon.

Both the string quartet version and a version for keyboards or accordion is available.
Find Ayuo Takahashi on facebook and send him a text message, asking fora PDF file of this score.

Ayuo:Composition
甲斐史子(Fumiko Kai):Violin
大鹿由希(Yuki Oshika):Violin
佐藤佳子(Yoshiko Sato);Viola
松本卓似(Takui Matsumoto):Cello

CD printed by Zipangu Label

11月7日のチラシ

1107-chirashiこれが来週の11月7日のチラシの表です。これはコラボレーション・アートになっています。ネコとバンドのイラストは僕が描いたもので、数日前に僕のFacebookのウォールで紹介したものです。バックのペインティングは、こないだも一緒に演奏した Masaaki Aoyama さんの描いたものです。デザインは Studio Panda の牛山惠子さんです。

私達が知っていた秋は消えてしまう、と語っているニュース映像

春と秋が毎年短くなっていると多くの人は気づいているでしょう。その内、私達が知っていた秋は消えてしまう、と語っているニュース映像。パンプキン(かぼちゃ)は昔は今の季節のものだったので、ハロウィンのシンボルだったが、今年はアメリカでは8月がかぼちゃのシーズンになってしまっていた。これは地球の温度が変わっていることの影響。これが昔のように戻ることはもうこれからはない、と多くの科学者は語っている。もしも、地球の温度が変わっていない、と思っている人がいまだにいたら、自分の身の回りで、この差が感じられるか、植物や昆虫などの変化に気づくかどうかを一度自分一人で考えて見ると思い起こすことがいろいろとあるかもしれない。(英語があまり得意ではない方は、youtubeに字幕のボタンを押すと言葉の英語の字幕が出ます。)

生命の始まり

ayuo-illustration-2

Illustration by Ayuo. 11月7日のチラシ用のイラスト。旧約聖書のヘビとリンゴ。犬が猫に愛を語っている。3人の猫がベリーダンスをしている。バンドがいる。猫がドラマー。ヘヴィ・メタルと言っているベーシスト。歌っているキーボードの人。ギターの人がタイトルを語っている。生命の始まり。

New Order のレコーディングを見に行った時について。

この一週間位、New Order の新譜と2000年以後のNew OrderのCDをよく聴いています。1980年代にNew Orderのレコーディングに遊びに行く機会が僕にあった。State of the Nationという曲を録音している最中だった。長時間ドラマーとリズム・プログラマーのStephen Morrisと話す事が出来た。彼は自分のリズム・パートの録音が終わっていて、奥さんのキーボード奏者のGillian Gilbertはもう帰っていて、Bernard SumnerとPeter Hook がダビングをしていた。Bernardは真剣な顔で同じパートの直しを何度もしていたので、Stephen Morrisは話しが出来る時間があった。三島由紀夫などについても話していた。
1980年代当時、New Order のやっている事は、僕にとって新しいサウンドだった。コンピューターの打ち込みやサンプリングのテクノロジーも含めながら、本物のバンド・サウンドとしてまとまっている良さがあった。このようなバンドはまだあまりなかった。自分が当時未来に目指したかったサウンドだった。Stephen Morrisは元々かなり良いドラマーだ。シンプルに聴こえるかもしれないが、独特のビートの感覚を持っている。彼の奥さんであり、キーボード奏者のGillian Gilbertと共にプログラミングを独自に勉強し、ライブではドラムを叩く以外に、Emulatorという当時出たばかりのサンプラーをドラムや生のパーカッションを叩く同じ勢いで叩いていた。そして、今の新しいCDや昔の彼らの曲の最近のライブ・ヴァージョンを聴くと、打ち込みやアレンジがさらに進化して、どんどん良くなっている。New Order の曲は、みんながバンドとして書いている曲が多い。Stephen Morrisと奥さんのGillian が打ち込みで作った曲にシンガー・作詞家・ギタリストのBernardが詞を書いて、ヒットした曲もいくつもある。
Stephen Morris はとても話しやすい人だった。仕事も一緒にしやすい人だと思った。彼に僕の『水色の鏡』のバンド・ヴァージョンの”River of Light” のが収録されているアルバムを最後に渡したのが覚えている。
彼らのヴィデオは他のバンドのヴィデオと違う。プロモーション・ヴィデオというよりは映画監督に曲にインスパイヤーされた5分間のショート・フィルムを委嘱している。中には、『羊たちの沈黙』等の知られている映画を監督するようになった人もいる。
これはスウェーデンの監督、ヨハン・レンクが作ったNew Order の2005年の『Krafty』。シンガーのBernardはこれが入っているアルバムのタイトル曲『Waiting for the Sirens’ Call』がNew Orderでのfavoriteな曲(最も好きな曲)だと言ったことがあった。
ところで、ドラマーのStephen Morrisと奥さんのGillian Gilbertは1978年に前身のバンド、ジョイ・ディヴィジョンのライブで20歳の時に出会ってから、今でも夫婦でありながら、一緒に曲を作り、ツアーを続けている。その間に、子供を二人育てて、奥さんの乳がんを乗り越えている。今、もうすぐ60歳だ。これは今の時代ではめずらしいことだ。

ドビュッシーのメロディーによるI Cry In My Heart

先週は多くの方からお誕生日お祝いのメッセージを頂き、ありがとうございました。僕の生まれた時間から数時間ずれるとフランスの詩人、アルチュール・ランボーの誕生日と同じになり、友人で別の記事でランボーについて書いている人がいました。このリンクは、今度の11月7日のライブでも演奏する曲ですが、アルチュール・ランボーの書いた言葉のanswer song、 (返事の唄)として書かれたポール・ヴェルレーヌの唄にドビュッシーがメロディーを書いたものに基づいています。しかし、この曲は僕はハワイのスラック・キー・チューニングで使われている変則チューニングで弾いているもので、ドビュッシー独特のハーモニーは使っていない。メロディーしか使っていなく、それも3拍子のメロディーから4拍子に変えてしまっている。オリジナルを知っている人は気づくかもしれないが、知らない人にとってはオープン・チューニング・ギターと歌の曲に聴こえるでしょう。この曲は、2010年頃には、ドビュッシーの曲を弦楽四重奏に、僕がアレンジした曲等と一緒に演奏していた。
このヴァージョンは、2010年に柴田暦さんと立岩潤三さんのパーカッションで演奏されている。今度の11月7日の六本木 新世界でのライブではバンドとダンスを含んだヴァージョンで演奏する。ドラムスは立岩潤三さん。ベースは守屋拓之さん。ピアノは瀬尾真喜子さん。ダンスはNashaalとAyuo.
A song for acoustic guitar and vocals based on the melody to Debussy’s Il pleure dans mon coeur”
“It is raining gently in the city” – Author Rimbaud
The original words to Debussy’s song was based on Paul Verlaine’s answer to Rimbaud’s words.
The English words are translated by Ayuo
Ayuo: Acoustic open tuning guitar and vocals
Reki Shibata: Vocals
Junzo Tateiwa: percussion
Live at Thatre Iwato January 2010

ラヴェルとサティ、そしてドビュッシー by Ayuo

ラヴェルとサティ、そしてドビュッシー   by Ayuo Takahashi

これは、こないだfacebookで書いた『サティとドビュッシーの不思議な関係について』の続きでもあります。
こないだの文章の終わりの方で、次のように書いていました。
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ロバート・オーリッジによると、1908年位までは音楽技術のない音楽家、サティと作曲でローマ賞をとった作曲家ドビュッシーとの友情関係に見えていた。しかし、1910年代に作曲家のラヴェルがサティの作品を弾いて、影響を受けたと言い出すと状況は変わってしまう。
サティは次のように書く:
Erik Satie:One person who isn’t pleased is the good Claude. If he had done sooner what Ravel – who makes no secret of the influence I had on him – has done, his position would be different.I’m not angry with him about it. He’s the victim of his own social climbing.Why won’t he allow me a very small place in his shadow? I have no use for the sun. His conduct has antagonaised the ‘Ravelites’ and the ‘Satiests’, people who have been yelling at each other like polecats.
サティ:クロード(ドビュッシー)は面白くなかった。もしも、クロードが先にやってくれていたら、違っていただろう。ラヴェルは、私、サティに影響を受けたとみんなに言ってくれる。私は怒ってはいない。ドビュッシーは自分の出世に夢中だったらから、こうなってしまったのだ。どうして、かれの影としてでも、立場を与えてくれないのだろうか?私にとっては太陽のように注目される必要がない。ドビュッシーの行動はラヴェルのフォロワーやサティを注目する人達がお互いをスカンクのように怒鳴りあうような状況を作ってしまった。
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多くの友情は、その人間同士だけではなく、周りのフォロワーたちによって破壊されてしまうケースがある。ドビュッシー、サティとラヴェルの関係にも、そのような感じが見えて来る。サティ本人もドビュッシーが亡くなった後に、このように書いていた:
サティ:私のかわいそうな友よ。しかし、今生きていたら、世間やドビュッシーのフォロワー達がお互いを敵同士にさせたかもしれない。私達の長い友情は世間によって破壊されたかもしれない。
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ラヴェルは父、ジョゼフ・ラヴェルの紹介で学生時代にエリック・サティと出合った。サティは当時Cafe de la Nouvelle Athenesでピアノを弾いていて、ボヘミアンな生活をしていた。ラヴェル本人は書いている。
L’influence de Satie [était visible] dans la Ballade de la reine morte d’aimer.” (Ravel [1938]).
サティの影響はラヴェルの最も初期の歌曲『愛のために亡くなった王女のバラード』で見られる。この曲の中世ヨーロッパのモード、ドリア・モードの使い方はサティの影響だと見られている。この曲にはアメリカの作家エドガー・アラン・ポーの詩、『ベル』の影響も見られる。ポーもラヴェルの作風に大きな影響を与えた人だった。サティの影響については、他の初期の歌曲『Sainte』や『Un grand sommeil noir』でのコードのオスティナート・パターンにも感じられると言われている。

ラヴェル(1875年3月7日 – 1937年12月28日)はドビュッシー(1862年8月22日 – 1918年3月25日)やサティ(1866年5月17日 – 1925年7月1日)よりも10年位若かった。そして、ラヴェルはドビュッシーからの影響を常に認めていたが、ドビュッシーの音楽と自分の音楽の違いについても主張していた。ドビュッシーはピアノでの即興演奏がとても上手な人で、ピエール・ルイスのサロン・パーティー等でもよく即興演奏しながら歌っていた事が有名だった。そして、その頃、即興演奏をしながら思い浮かんでいて音楽を後に多くの歌曲、『ペレアスとメリザンド』、そして室内楽の作品の中にまとめて行った。ドビュッシーは、作品を書きながら、何度も書き直して行った。非常に感覚的に作る作曲家だった。しかし、こうした作品の方法をラヴェルは取らなかった。ラヴェルは、ドビュッシーの作品には形式に対して規律に欠けている場合があるとも語ってしまっている。ここに二人の作風の大きな違いがある。

“I started the reaction against him in favor of the classics because I craved more will and intellect than his music contained.”(Ravel)
ラヴェルは古典的な形式をドビュッシーよりも大切にしていると語っていた。
ドビュッシーはラヴェルについてあまり良く言っていなかった。ドビュッシーはラヴェルの音楽は人工的に感じられる部分があると語っていた。(debussy is said to have objected strongly to a “dryness” and “artificiality” in Ravel’s music. )

ドビュッシーにとっても、ラヴェルにとっても、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーは大きな影響だった。しかし、その影響の取り入れ方に違いがあった。ドビュッシーはポーの物語に基づいたオペラを何度も始めていた。唯一ある形が残っているのは未完のオペラ『アッシャー家の崩壊』。(最近ではドビュッシーの研究家で作曲家のロバート・オーリッジが完成させたヴァージョンが演奏されている。)ドビュッシーはポーの古典的な形式に対する考え方よりも、ポーの描くイメージや世界観に影響を受けていた。
ラヴェルはポーの古典的な作風に対する考え方に最も影響を受けていた。ポーが自分の詩『からす』の方法論を分析する”The Philosophy of Composition” はラヴェルに特に大きな影響を与えた。そして、そのロジカルで計算されたな方法論を自分の作風に取り入れた。

ラヴェルの研究家、デボラ・モウアーは次のようにラヴェルの研究書で書いている:
Undoubtedly, the single most important influence upon Ravel was the mid-nineteenth century American writer, Edgar Allen Poe.
Ravel was spellbound by “The Raven” and emphasized with Poe’s description of its evolutionary process as presented in “The Philosophy of Composition” in objectified and mathematical terms.
Poe’s emphasis within the process of composition on deliberate, calculated and logical planning appealed to Ravel’s measured approach to musical composition.(from Ravel edited by Deborah Mower)

ラヴェルのサティについては新しい音楽の実験をするパイオニア として見ていた。サティが亡くなった後にラヴェルは語っていた。『サティは多くの進歩的な考えを持つ人にとってのインスピレーションだった。。。彼はドビュッシーの印象派的なアプローチを先にやっていながらも、音楽界をその方向性から抜け出る為のリーダーともなっていた。。。しかし、彼自身は自分の発見から完成された芸術を作るまでに至らなかった。』最後に語っている事は、サティは音楽技術的には弱かった、と指している。(ドビュッシーとラヴェルはオーケストレーションの天才として見られている。)

しかし、ラヴェルはサティの名前が世間に知られるように、最初にサティの曲を広めた人だった。また、サティにささげている有名な曲がいくつもある。
『マ・メール・ロワ』の第4曲目『美女と野獣の対話』のスコアには次の言葉が書いてあった:To Erik Satie, grandfather of the “Entrtiens” and other pieces, with the affectionate homage of a disciple.
この曲はラヴェル自身が『第4のジムノペディ』と呼んでいた。(ロバート・オーリッジの本”Satie The Composer” より)
ところで、私個人にとってはこの作品ラヴェルの『マ・メール・ロワ』は様々な音楽の中でも最も好きな作品の一つである。
ラヴェルの歌曲、『ステファヌ・マラルメの3つの詩』(1913)の3曲目、『壷のなかから一飛びに躍り出た』もサティにささげられている。これはサティが新しい音楽の実験をするパイオニア として見ているためにささげたものだと思われている。

サティは最初ラヴェルに恩を感じていた。この文章の初めにある言葉でそれは伝わると思う。しかし、サティが1917年のコクトーが企画した『パラード』の成功によってフランスの六人組からも時代の先駆者として認められると、ラヴェルについては人間はとても好きだが、古典的で古い考えの音楽を作る人として語るようになった。ラヴェルはサティについては、サティが亡くなるまで、意見を語らなかった。

この文書の初めのサティの文書にあったように、それぞれの作曲家にフォロワーやファンが出来てしまうと、その人間同士の関係で収まりそうな問題でも、他の人達が間に入ってしまうため、より複雑になり、友情関係になれたものも破壊されてしまう可能性がある。
人の人生とその人の作品について調べていくと、いろいろと人生について学べるものがある。それが重要だと僕は思う。

サティとドビュッシーの不思議な関係について。 by Ayuo

サティとドビュッシーの不思議な関係について。 by Ayuo
Erik Satie (about Claude Debussy): As soon as I saw him for the first time, I felt drawn towards him and longed to live forever at his side. For thirty years I had the joy of seeing this wish fulfilled…We understood each other at once, for it seemed that we had always known each other. (From Satie Ecrits p.68)

サティ(ドビュッシーについて):彼を初めて見た時、彼の魅力にひかれた、彼のそばで永遠に過ごしたいと思った。30年間もの間、この望みは叶うことが出来た。私たちは一瞬でお互いの事を理解できた。それは前からお互いのことを知っているかのようだった。(サティのEcrits より 68ページ)

これは30年間の間、毎週1回から3回、ドビュッシーの家に遊びに行っていた、
作曲家エリック・サティの書いた言葉。

Erik Satie:”I witnessed his entire creative development. The String Quartet, the Chansons de Bilitis, Pelleas et Melisande were born before me; and I still cannot forget the emotion this music produced in me. ”
サティ:彼の作曲家の発展を全て体験することが出来た。弦楽四重奏、ビリティスの唄、ペレアスとメレザンド。これら作品は私の目の前で生まれた。これらの音楽が私に呼び起こした感動は忘れることがないだろう。

Debussy played Chopin to Satie, being “able to analyze and understand his music as few virtuosi can.”ドビュッシーはサティにショパンを弾きながら、彼の作品を世の中のわずかの人しか出来ないほど理解をして、分析していた。
ドビュッシーやサティの最近の研究家のロバート・オーリッジは、ドビュッシーがオペラ『ペレアスとメレザンド』ほど複雑なオーケストレーションの曲をどうやって、他の作曲家が遊びに来ながら作曲できたのだろう、と書いている。
サティが遊びに来ると、ドビュッシーが手料理を作り、音楽、芸術、世間話等しながら、チェスやバックギャモン等のゲームをした。外にもしょっちゅう魚釣りに行ったり、パーティーに行ったりしていた。周りの人は二人の関係は何だろう?、と不思議がった。

しかし、サティは作曲家としてまだ全然認められていなかった。ドビュッシーも彼を出版社や音楽のパトロンには紹介しなかった。しかし、ドビュッシーにはサティが必要だった。ロバート・オーリッジは書く『Both composers were reclusive and disliked discussing their music with others, so it is likely that their frank conversations provided a very necessary emotional outlet.』(二人とも内向的で、人と音楽を話すのが好きではなかった。お互いに対しては素直に話せるので、これが彼らにとって必要だった。)

Erik Satie:”If I didn’t have Debussy to talk about things a bit above those common men discuss, I don’t what I should do to express my poor thoughts.”

当時、二人を知っていたLouis Laloy は書き残している:
“They seemed like two brothers, placed by the events of their life in very different situations, the one rich, the other poor; the first welcoming, but proud of his superiority and ready to make it felt, the second unhappy behind a jester’s mask, paying his share of things with witticisms to divert his host, hiding his humiliation; each constantly on his guard against the other, without being able to to stop loving him tenderly. ”

彼らの周りにいた人は、サティはドビュッシーの寄生虫と言ったり、ドビュッシーの道化師と呼ばれたりしていた。サティの作品はシンプルで、作曲を勉強する人はかならず書くフーガ等もサティには出来なかった。これはサティにとってコンプレックスになり、40代の時に作曲の対位法を習いに行った。しかし、それでも、二人はお互いを愛している兄弟のように見えていた、とLouis Laloy は書いている。
サティは、自分の本当の姿をあまり見せないようにしていた。”変わっている人”を演技するようになった人だった。自分の家には誰も招待せず、外に出かける前には自分の決めた姿をしっかりと作った。殆どの人生、彼は貧しかった。そして、彼にとって人生はつらかった。彼は自分の作ったキャラクターを演じるようになっていた。サティは書いている:『人生はいよいよ耐え難くなり、自分の土地に引篭もって、象牙の塔の中で過ごす決心をしました。徐々に人嫌いになり、心気症を増殖させていきました。私は最も憂うつな人間でした。全て音楽のせいです。悪い事の方が多かった。素晴らしい友人達と仲違いばかりでした。』

ドビュッシーの妻の娘、Dolly Helne Bardacは書く:
Erik Satie came to lunch regularly. I always awaited his coming with impatience, so unexpectedly comical was his way of expressing himself and his repartee in conversation.
サティはレギュラーにランチに来ていた。彼はとてもコミカルに表現出来る人なので、いつも彼が来るのが楽しみだった。
サティはパリから少し離れた屋根裏の部屋に住んでいた。そして、ドビュッシーは素晴らしい料理人だった。

Erik Satie:Eggs and lamb cutlets were the main items, but what eggs and cutlets!…I still lick my lips just thinking about them.
Debussy – who prepared these eggs and cutlets himself – knew the secret of these preparations. (Satie, Ecrits p58)
サティ:卵と子羊のカツレツがメインだった。しかし、何ておいしい卵と子羊のカツレツだったのだろうか?いまだに、その味を思い出すだけで唇をなめたくなる。ドビュッシーはどうやって美味しく作れるかの秘密が分かっていた。。(サティのEcrits より58ページ)

ロバート・オーリッジによると、1908年位までは音楽技術のない音楽家、サティと作曲のローマ賞をとった作曲家、ドビュッシーとの関係に見えていた。しかし、1910年代に作曲家のラヴェルがサティの作品を弾いて、影響を受けたと言い出すと状況は変わってしまう。

サティは次のように書く:
Erik Satie:One person who isn’t pleased is the good Claude. If he had done sooner what Ravel – who makes no secret of the influence I had on him – has done, his position would be different.

サティ:クロードは面白くなかった。もしも、クロードが先にやってくれていたら、違っていただろう。ラヴェルは、私、サティに影響を受けたとみんなに言ってくれる。

ドビュッシーはなぜサティが成功しているのかが理解しづらかった。そして、1917年のコクトーが企画した『パラード』の成功によってフランスの六人組からも時代の先駆者として認められる頃には、二人は会わなくなった。

サティはドビュッシーが亡くなった後に書いた:
Erik Satie:My poor friend! And to think that if he were still alive, we would today be the worst of enemies. Life – and the ‘Debussyists’ – would have taken it upon themselves to separate us, and to sow their seeds of hate between us. Our long friendship would have been ruined for evermore.
サティ:私のかわいそうな友よ。しかし、今生きていたら、世間やドビュッシーのフォロワー達がお互いを敵同士にさせたかもしれない。私達の長い友情は世間によって破壊されたかもしれない。
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新世界のライヴのために書いたイラスト

Illustration by Ayuo. 11月7日の六本木 新世界のライヴのために書いたイラスト。お母さんネコが空を見上げて、見て、と言っている。子猫が、どこ?、と言っている。空の上には宇宙人が円盤に乗っている。宇宙へようこそ、マッテイルゼ、と言っている。ラララ、と歌って踊っている女の子。ブギウギ、というTシャツを着ている男の子。ロックンロール、と言っている男。そして、賢そうな猫教授がコンサートのタイトル、生命の始まり、と言っている。

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